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20. てのひらの地層———昨日と今日と明日を生きる。

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  • 2022年12月23日
  • 読了時間: 5分

更新日:2月15日

*이십(イーシプ)=韓国語で「20」








出入口のドアを開けると、突風とともに塵のような粉雪が舞い込んでくる。今日が年末最後の一日かのような錯覚に陥る、年の瀬。


年の暮れ、という言い方よりも、水流を感じさせる年の瀬という表現がすきだ。


川のうち、浅く流れが早い部分を瀬、ゆるやかで水深のあるところを淵ということは最近知ったけれど、線のように流れる時間が一年のなかでもとりわけ早い場所が年の瀬ということか、と納得する。



この一年は、振り返ることが多かった。


そのなかでも、全体を貫くテーマとして見てきたことは、自分は一人だけど、ひとつではないということだ。


10歳の私とも、20歳の私ともいまの私は違うわけで、違うけれど、おなじでもある。


過去形になったできごとは遠ざかるばかりでなく、いままさにここにあるものとしても存在しつづける。


別れを告げるべくもなく去っていくものと、離れがたくこびりついてくるものとがある。


複数の時間軸の、折り重なったところに立っている。それが今だ。



2世紀も3世紀も前に生きたひとの言葉に、自分との重なりを見出すことがある。ときにはそれが、同時代のだれよりも近く、親しく感じられる。



“いま” という時間を取り出してみると、一人分の空間のなかに、いくつもの地層が堆積している。



分裂した人型が同居しているような同時性とは違って、種類の違う複数の層が積み重なり、自分を形作っていると感じる。


ひとつだけ地層を抜き取ることは不可能。断層をみれば砂岩、泥岩、凝灰岩といくつもの層が混ざりあっているように、相反する要素が一人のなかに混在している。実際は白か黒かの二項対立ではなく、その中間には微妙なグラデーションがある。人から影響を受けたり、相互に反応しあったりして生成変化する。



変化してきたことは、形を失っても地層のなかに刻まれている。



てのひらにある皺は、それぞれの生きてきた歴史であり、年月を経て動かしてきた筋肉によって表情を変える。



複数の時間性とともに生きること。



いまの時点ではコレクトな選択に見えても、未来の自分にとってインコレクトになるかもしれない。もっと想像しがたいのは、その反対の場合だと思う。


いまの社会では認められない、いまの自分には間違っているように見える、けれどやってみたい、そういうことに挑むことは容易くないだろう。そもそも、選択肢として見えていないことも多い。




実体のない焦り。加速する時の川。


交通量の多い街中をゆく最短距離の道ではなく、遠回りをして緑のある静かな道を歩くことが自分にとって良い場合もある。重なりあう多層、立体的なものとして時間をとらえていたい。






ドイツ語で多様性を指す語として “die Vielfalt” がある。


一方で、単純さ、純真さをあらわす語は die Einfalt だ。viel はたくさんの、ein はひとつの、を意味する。


die Vielfältigkeit も多様性の意味で用いられ、die Diversität は、英語のdiversityと同じラテン語由来の語だ。



“falt” はなにを表すのか。どういう経緯で、単純さや多様性という、それぞれの語になったのかが気になる。



Dudenで Einfalt を調べると、8~11世紀の書物に記された古高ドイツ語では “einfach” と同じ、とある。(https://www.duden.de/rechtschreibung/Einfalt)



einfach は現在も簡単な、単一のという意味の形容詞として使われていて、対する vielfach は、何倍もの、幾重もの、多様なという意味をもつ。



das Fach は、棚や窓の仕切り、学問の専門領域や専攻科目、学科などの意味がある。Fachwerkhaus(木骨家屋、ハーフティンバー造り、木組み建築)は、ドイツやフランスなどのヨーロッパで、特に中世の雰囲気が残る地域で見られる建築様式だ。格子状に組み合わさった木の骨組みが白地の壁と対照をなし美しい建物の外観。どこか懐かしい、ファンタジーの世界に迷い込んだかのような街並み。




数字と組み合わせることで、dreifach(3倍の)、zehnfach(10倍の)という倍加の意味になり、英語では “-fold” にあたる。fold は、折る、畳む、折り目。再びドイツ語に目線を戻すと、falten と die Falte がそれに該当するだろう。



falten には、折りたたむ、(祈るために手を)組み合わせるなどの意味があり、die Falte は折り目、皺、ひだ、地学用語で褶曲(Erdfalte)などをあらわす。




皮膚に刻まれる皺、ブラウスの皺。


平らな土地が、地殻変動によって褶曲する。大地が波打つ。地殻にしわが寄る。


波打つ大地にアイロンをかける。




母語であれば、多義語がもつそれぞれの意味は、おそらく文脈と組み合わさる語によってほとんど自動的にスイッチングされる。大地の Falte は皺の意味を隠し、ただ「褶曲」としか認識されないのかもしれない。ブラウスのしわと大地の褶曲を重ねるのは、その自動化の働かない赤子のような学習者の特権。



私が日本語で「肩が凝る」のと「凝ったデザイン」を別物として平気で並列できるように、言語に慣れると、遠視的になる側面がある。大都市の満員電車の人混みを、髪型、服装、顔立ち、振る舞いで一人一人の情報として見ていては生活できないように、言葉においても、ひとつひとつの木や枝葉ではなく、慣れれば慣れるほど、森として見える距離にピントが合うようになると感じる。





一人としての自分は、断片の集合体。


焦点距離をかえてみれば、違う像が立ち現れてくる。


どちらが正しいかという問答は、ゼロに近づく行為。


それよりもっと、万華鏡を覗くこどものように夢中で、ひとつひとつの円が異なる層をなす、割り切れない幾何学模様を見ていたい。



ときに重なり、ときに離れ、見たこともない模様をつくる。


複数の時間軸を生きる私たちには、地層のように踏みしだかれた見えない蓄積があるだろう。


多層という言葉のもつ、干渉性。


切り離すことができずに、互いに影響しあって、それでいて互いの場所を奪いあうことなく存在しつづける。


そんなかかわりかたを夢見て、降り積もることなくアスファルトにふれては溶ける粉雪を窓から眺めている。


飄風が消した火を、また灯しながら。



2022.12.23  u  

 
 
 

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