56. 壁紙を選ぶ。
- u
- 8月14日
- 読了時間: 4分
更新日:10月1日

ずっと同じ場所にいて、変化のない景色を見続けていると、改めてそのことを実感したとき、言い知れぬ閉塞感を覚える。
そんな狭苦しさを表せる身近な口語表現に、ドイツ語の Mir fällt die Decke auf den Kopf. (天井が頭に落ちてくる) がある。
物理的に狭い空間にいるときよりも、変化のない生活や代わり映えのしない景色のなかで、知覚世界が今見えているものだけになってしまっているような場合に用いられるようだ。
Die Decke(天井) という一語をとっても、decken(覆う) という動詞が見え隠れすることで、遮り、覆いかぶさるもの、世界から自分を隔絶するものとしての語感が日本語よりも強く感じられる。
英語では、caged in という表現が思い浮かんだ。
a caged bird (籠の鳥)
I'm caged in my mind. (考えに囚われる)
I feel caged by one's expectations. (人の期待に縛られる)
など、cage は鳥籠や檻のことで、cage up で物理的に囲う・閉じ込めるという意味にもなる。
身動きがとれないとき、そこに見えない檻があったことに気づけるのは、壁に突き当たった瞬間だ。
Learned Helplessness (学習性無力感) は、苦しい状況を幾度も経験するなかで、自分の行動や努力が結果に影響を与えないと感じて、困難に直面しても自発的な行動を起こさなくなることを名づけたもの。
横から回り込める一枚の壁に直面している場合でも、四方を囲まれた檻のように感じてしまう。
横に柵がないことは見えているのに、身体が動かない。
そんなときに思い出したいのが、der Tapetenwechsel (壁紙の交換) という考え方。
Jetzt brauche ich einen Tapetenwechsel...(今の私には壁紙の交換が必要だ) というとき、実際に壁紙を貼り直したり、壁を塗り直したりするわけではないことが多い。
ハイキングや小旅行に出かけるなど、最近できていなかったやりたいことをして、とりわけ、いつもと違う景色を見る機会を設けるなどして、気分転換をすること。
引っ越しや転職で環境を変えることも表せる。
でも、目の前の景色を変えるために、ここにいてできるちいさなことも沢山ある。
今の自分に合った絵や写真を部屋に飾る、家具の配置を変える、手帳やカレンダーを新調する、PCや携帯電話の壁紙を変える、掃除をする、いつもと違う姿勢をとる、窓の外を眺める。
見える景色が変われば、生活に新鮮な空気が入り、あたらしい視点からの考えや着想を促す。
こうしたなじみ深い口語表現が用いられる背景には、身近にも、実際に部屋の壁を今の自分の感覚に合わせて塗り替えている人たちがいるように、賃貸物件でも退去時に原状復帰すれば、壁の色を自由に変えられる住まいが多いなどの事情がありそうだ。
個々がより心地よく今を過ごすために、積極的に環境に働きかける力として私の目に映る。
フランス語の Bricolage (ブリコラージュ) は、既製品に刺繍を施したり、棚を好きな配色で塗装し直したりすることを含む工作のこと。その場にある素材にひと工夫を加えて、手を動かすことで自分好みの空間をつくり上げることも、環境からただ受け取るだけではなく、環境を活かして、自分なりの居心地のよさを形にする技術だと思う。
心が落ち着く色、気持ちに灯りを添えてくれる小物たち、自信が育つ衣服と装身具、時間と場所の隔たりをこえて同居する本の群れ。
英語の surround oneself with...(~に囲まれる、~な環境に身を置く) という表現が、ちいさな気づきを与えてくれる。
surround(囲む) というこの言葉。思い返してみれば、surrounded by...(~に囲まれた) や、in my surroundings(自分をとりまく環境) として用いることはあっても、surround myself with things that soothe me(ホッとするものをそばに置く) のように言えることは知らなかった。
人やものを置くことであり、自分自身を位置づけることでもある表し方。
物理的には同じく「囲まれる」という意味の表現でも、caged in とは違って中立的。何に囲まれて暮らすかは選べること、自分を取り巻く風景は変えられることを、思い出させてくれる。
手が届く範囲で、見える世界を変える。
印象を焼き付ける、映像を残す、物語を編む、音を紡ぐ、線を重ねる。
異なる美学をもっていても、個の道筋で世界に関わろうとするひとびとの営みは響きあう。
表現の過程には、その人から発される、外向きの矢印があるように思う。
背後には、それと同じか、むしろそれよりはるかに膨大な、植物の根のように普段は見えない内向きの矢印があることも。
天井も檻も突き抜けて届く、いくつもの言葉。
知らない空気を伴って、まだ見ぬ外へと私を誘い出す。
2025.08.14 u





コメント