10. “brennen” 燃えることは灯ること。
- u
- 2022年8月18日
- 読了時間: 5分
更新日:2月15日

この場所を開いて3か月が経った。
人の見える場所に自分の考えの一部を置くということは、想像した以上に心理的な不安が大きい。時々、無防備で傷つきやすい自分の一部が晒されているような気持ちになる。
見られるということは、判断されることを伴う。解釈されることを、誤解を伴う。
その一方で、共鳴する。
自分のはかり知れないところで、無自覚なうちに、波紋は巡る。波紋は、良いものでも悪いものでもない。ただそれとして、巡る。
それは、目線の多さに関係しない。
たとえ見る人が書いた人だけであったとしても、巡る。見る人が、書いた人とは違う目で見て何かを投げかけたなら、波紋は色とリズムを変えて、巡っていく。
私は文字を置くとき、解釈の可能性を考えている。文章を公開することは滴を落とすことで、そこに波紋が生じるからだ。
私の素の意図とはまったく違う解釈ができてしまうようなら、その一文はさらに長い孵化までの時間を得る。
その一文が孵化する瞬間は、きっとこういうときなのだと思う文章をある本に認めた。
未知なものが発した要求が観察者の聴く姿勢と一致したとき、ふれたことになり、ふれられたことになる。生き物の働きは常に、相互に作用している。人間は、人間のみの働きで生きているのではない。生きているという運動の中に、人間の動きがあり、人間への働きも、他の生き物への働きも、同時に起きている。構築した表現で言い表すと啐啄同時だ。
川﨑智子『整体覚書 道程』(2022)土曜社, P9
啐啄同時。出ようとするひな鳥と、出会おうとする親鳥。
それは、書かれようとする私と書く私であり、書こうとする人と見る人でもあると思う。
外を知りたい。安全な内側にいたい。
ブログを書いていると、より多く見られるため、自分を知ってもらうためにやっていると思われるかもしれないが、そういう相反する働きかけの、せめぎ合いの中にいる。
好きなものを育み続けることの難しさを思う。
世間話で趣味や関心の話になったとき、言語に興味があると話すと、一番よく返ってくる言葉に「ちょっと話してみてよ」と「スコア何点?」がある。
それ自体は何ら問題ないやりとりだと思うけれど、好きなことについて話していたはずが、得意なことの話にすり替えられているような気がする。
これは、言語に限った話ではないと思う。
好きな教科の話、趣味の話、ファッションの話、興味がある分野の話。
多くの場では、好きなら、人より詳しかったり上手だったりするんだろうという先入観があるだろう。
「これを知らなきゃ〇〇好きとは言えない!」という類のキャッチコピーを見るたびに、好きであることに資格なんかない、と思う。
映画であれば、名作や俳優に詳しいとか、音楽ならば、どのジャンルのどの年代の、とか。
それが呼水となり会話が弾むこともあれば、そこにいる誰かが発する言葉を失い、知識自慢に終始することもある。
今日も画面越しには、絵を写真を歌を踊りを言葉を、たくさんの人が置いた、その人の一部を見られる。
それはたしかにその人から生み出された一部であるけれど、今も、これから先もその人の中に同じものがあるという保証はない。見えなくても、誰かが自分のなかで大切に育てている好きなものは、もっと広く、無重力空間のように果てしないはずだ。
私は絵を描くことが好きだけれど、それは人に見せないと決めているから楽しめている部分が大きい。人に見せると、少なからず返ってくる反応の最初の部分に、上手いか下手かの評価がいつもつきまとうのが虚しい。
見られることを意識する、上手くやろうとする、それが自分の線を変えてしまう。
気ままに落書きをしていると、よれた線も、雑になった筆運びも、ままならない様が今の自分そのままを表している気がして、とても好ましく思える。今日を生きた私の線が残る。そういうところが絵を描いていて楽しい。
そんな風に思えるようになるには、長い年月を要した。
私は、人が、好きなものについて話しているのを聴くのが好きだ。
好きなものに、それぞれのやり方で夢中になっている姿を見ることが好きだ。
どれだけ多くの時間を費やしたかとか、人前でどれだけ高い技術を出せているかとか、どれだけ多くの知識があるかとか、それを示せるかとか、私がそれに興味があるかとか、どれも関係なく、人が目を輝かせて早口になって何かを熱く語るさまは、とても人間らしいと思う。
この時代では、自らいい木を探してきて薪割りをし、火を起こし、薪をくべ続けなくても生きていける人が多いのかもしれない。火が必要なら、ガスのある場所にいて足りなくなればいつでもワンタッチで補充できる。必要なときに、必要なだけエンタメを摂取すればいいように。
明かりが必要なら、恒久的なLEDライトで快適に暮らせる。活版で刷られた文字がなくても、液晶に浮かび上がる光の点があれば。
それは薪をくべる行為を見事に置き替えた、ように見える。
私は、自分が好きなものとは何かを言葉にするなら、ちいさな自分が、好きなだけ、自由奔放に息を切らして走り回れるようなものだ、と言いたい。
誰かにヘンだと言われそうとか、上手とか下手とか関係ない。役に立たないとか、意味がわからないと言われて、その人に無意味なものとしてのステッカーを貼られても、関係ない。こんなにも、夢中になれる。
自らを燃やす人に灯る光は、街も、国も、星もこえて、私に届く。
私は言語が上手ではないと思う。国際基準の高得点のスコアも持っていないし、長い海外経験もない。簡単に喋れるわけでもないし、正しい話し方という点ではもっと上手にできる人であふれている。
脇道ばかり通って、人に自慢できる名所はどこも通ってきていない。だからどこまでいっても自分のための散歩でしかなくて、脇に抱えた籠に、草花や木の実をあつめるように言葉を収集する。
それでも、私の中には焚火がある。
それは、けして強靭な、確かな火ではない。
雨や、人の吐く息でさえ簡単に消せてしまう。
だから、これからも、消えては火を起こし、風を読んで板を立て、天気を見て場所を移すのだと思う。
私は、いつかこの焚火のあたたかさを、熱さを、誰かと分かち合いたい。それがいつになるとしても。その誰かの中に燃える火を、私も見てみたい。
2022.08.18 u
素敵な写真。嬉しいね、