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27. 変化と変容・目標点のない夜間飛行。

  • u
  • 2023年5月12日
  • 読了時間: 5分

更新日:2月15日





歩く。足を前へ、前へ。前へ。



左右を壁のように取り囲む茂み。無関係を装うようにそっけなく、後にも先にも同じ景色が続いているように思う。


地面を踏みしめる音だけが聞こえる。地面の硬さを、ところどころに突き出る石の凹凸を足裏で感じる。





目線の先に、ロープが一本張られている。


その先はみえない。歩いてきた道はここで一旦終わって、Y字路になってまた同じような道が隣に続いている。


立札もなく張られたロープをまたぎ、藪の中へと入っていく。




藪の中で何と遭遇するか、どんなにすばらしい景色が、どんなにおそろしい身の危険が待ち構えているのか。ロープの手前からはいつも見ることができない。




人生を変えるような出会いも、予期せぬ感染もそこにある。




後戻りをすることはできても、感染は体の中に残り、そこで見聞きしたこと、自分の身に起こった変化はなかったことにはならない。





見慣れた道の上で、ロープを越えていく人たちを白い眼で見ながら、ひそひそ話をして冷笑している人がいる。


その中には、「はみ出さないけど、知ってはおきたい」という声もちらほら聞こえてくる。



自分は変わりたくないけど、そこにあるものを知っておきたい。


自分に無害な範囲で、いい影響があれば受け取りたい、と。







この世界のどこかでロープをまたぎ歩いてきた人たちが残してくれたものに、強く胸を打たれ、心が震える。そういうときがある。



変わることが良いことかそうでないかは計れないけれど、変わってしまってもいいと踏み切れる人がたどり着ける境地がたしかにある気がしている。そう踏み切らせるだけの出来事はこの世界に溢れている。通り過ぎることができる人たちもいる。





ロープは、人生の分岐点のような大きなものではない。毎日のなかに、そっと張られている。


小説、映画、言語、人との出会い、そういうものと個人的にかかわり、自分の背骨となってきた考え方さえ覆りかけたとき、ときどきロープをまたぐ気がする瞬間がある。





言語を勉強することは、人によっては「積み重なる」ことだと表現される。


自分という土台の上に、技術や、衣服や、月日のように堆積していくものとして。



知識や技術の側面では、たしかにそうだと思う。


積み重なるものとして言語とかかわるとき、土台である自分自身は基本的に変わらないものとしてそこにあり続ける。


そうすれば、母屋をそのままに、増築をしてより自分らしい、思い描いた通りの家をつくり上げていけるだろう。




辿り着きたい目的地が決まっていて理想像があるならば、積み上げていく方法が、より負担なく行ける近道が、進むべき道になる。


ロープをまたげば、望まざる変化をも引き受けることが大いにある。望んでいた道と繋がっていないことに後から気づくなんて無意味なことだ、と思う気持ちもたしかにあるだろう。





言語に触れていると、自分が解体され、再構築されていると感じる瞬間がある。


自分というひとりの人間の体中に、いくつもの相反する価値基準や、異なるものさしが同居していることに気づく。




ロープをまたいでいくと、当たり前にそこにあるものだと思っていた考えの柱に亀裂が走り、それを何度も繰り返していくと形を保っていた家は倒壊する。



同時に、あたらしい釘と床板を手に入れる。




住み慣れた家を失ったことで途方に暮れながら、ああ、こっちの木目の方が、前のものよりいいかもしれないな、と思ったりする。同じ家を建てることはもうできないけれど、だからこそ、もっと自分が好きになれる家をつくりたい。



あたらしいことを知りたいという好奇心は、いつもこういう破壊や再建と隣り合わせだ。




作品に対する批評や感想に触れると、その人が、どこから言葉を発しているのかを感じることがある。


その人の安全な書斎の机からなのか、窓の前に立って身を乗り出しながらか、それとも家を飛び出し、ロープをまたいで、ずんずん突き進みながら出た考えなのか。




これは、なにも文化的なテーマに限った話ではないと思う。



だれかと話をするとき、自分を守るために遠くから言葉を投げつけていないだろうか。相手の心が届かないところから、一方的に。双方が向かい合って、目を見て投げ合えているだろうか。




その人の声に耳を傾けようともしないのに、自分にとって有益な情報だけを知ろうとしていないか。



そのおもしろさがどういう道を歩いてきて出会ったものなのか、ロープの向こう側に行って知りたいし、一方で、自分の前にあるロープを人がまたぐことで、その人にとっておもしろいなにかが起こってほしいと願っている。




どれだけ近づこうとしても同じ感覚は得られない、同じ目線に立つことは不可能だという前提に立ちながら、それでも知ろうとすること。


そのために、自分が変わってしまうかもしれない可能性を受け入れること。



それは、自分自身に対して接するときにも同じでありたい。


過去のある時点の自分と向き合うとき、今まさに感じているなにかを見つめるとき。






だれもいない深夜の飛行場に辿り着く。


二人乗りのプロペラ機が一台、じっと黙って運転手を待っている。


扉を開けて運転席に座り、エンジンを始動するためのスロットルを片手でたしかに握ってみる。




エンジンは頼りなく不規則に振動を始める。


回転数が上がり衝撃とともに離陸すると、これまで歩いてきた藪が黒く、遠くなっていく。




そのときはじめて、自分が立っていたその地形を知る。


世界のすべてだと思っていた場所の、ずっと向こう側へと別の景色が広がっていることに気づくだろう。






現実の生活では藪の中を進んでいく日々の連続だとしても、ときどきそこを離れて、自分の運転で飛ぶことができることを忘れずにいたい。




飛行場は、いつも決まった場所で開かれているのではなく、ロープを越え、藪を抜けた先に待っているかもしれない可能性そのものだ。








2023.05.12  u  


 
 
 

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