29. 気晴らしの妙。
- u
- 2023年6月19日
- 読了時間: 5分
更新日:2月15日
*είκοσι εννιά(イーコシ エンニア)=ギリシャ語で「29」(「είκοσι=20」+「εννιά=9」 ※9は元々の形 “εννέα(エンネア)” が一般化したもの )

くつろぐを漢字で書くと、寛ぐになる。
ひろびろとゆとりがありきつくないこと、ゆるすこと。
ドイツ語で、リラックスに近い意味の “Entspannung(エントシュパヌング)” という言葉がある。
ent は離れる・取り除くという意味合いの接頭辞で、Spannung はピンと張った糸の状態、ギターやバイオリンの弦の張力や、緊張状態や筋肉がこわばっている様を表す。
言語を勉強していてほぐされる感覚になるのは、こうして一つの単語に見えていたものの中にもいくつか言葉が身を寄せ合っていることを知り、その組み合わせの総体がいかにも意味を体現していると感じる瞬間だと思う。
母語のように無意識のうちに浸透してしまった言葉では、概念を説明する名前のように言葉を捉えてしまう。
息抜きといえば息抜きであって、息を「抜く」こと、ゆっくりと息継ぎをして、緊張や集中を解くことにまで考えが及ばない。そういう慣性に裏打ちされた言語活動のなかでは、ひとつの言葉をモノとして多面的・多義的に見つめることがなかなかできない。
一方で、こうしてエントシュパンヌングの一語の中に、ぴんと張られた弦や筋肉がぎゅっと収縮している様子、その緊張の糸がたゆみ、弛緩する様が見えるからこそ、ゆるむということの安らぎを思い出し、一層たしかに感じることができる。
ent から連想する日常語彙の中には、すみません、と謝るときに発する “Entschuldigung” や、あたらしいなにかを発見するときの “entdecken” がある。
Schuld(責任・罪・負っているもの)を ent する(離れ・取り除く)ことが許しになり、Decke(覆い・天井)を ent することが発見になる。
なるほど英語で何気なく覚えてしまっていた Excuse me はラテン語で causa(非難・告発)をex(取り除く)ことで、discover も、cover(覆い)がdis(分離)することだったのか、と改めて知る。言葉をまじまじと見つめてみれば、見慣れた景色が変化する。
ちなみに英語の relax は、ラテン語で re(再び)laxus(緩む)ということに由来するそうだ。
友人と話していて、ドイツ語で “気分転換” を表せる言葉がいくつもあることに気づく。
しかもそれらが、私の頭の中ではまったく違う抽斗から出てきた言葉だったので驚いた。
◆ die Ablenkung
動詞の ablenken は、軌道を変えること。ボールや動く物体とあわせて、注意をべつの方向に向けることを表す。気をまぎらわせると言うこともできる。「わきへそらす」というニュアンスが個人的にしっくりくる。
物理用語で、光の屈折、磁力の偏向などの意味もあり、外的な力が働き、集中力の軌道が湾曲するイメージがある。”Ablenkungen in einem Arbeitsumfelt reduzieren(職場環境での気が散る要因を取り除く)” のように、ネガティブな意味でも用いられるようだ。
◆ die Abwechslung
動詞の abwechseln は交替すること、入れ替わること。多様性や変化という意味をあわせもつこの言葉には、1時間この作業をしたらメールをまとめて返そうとか、集中して本を読んだあとは植物のケアをしようという風に、向かう対象を取り換えるというニュアンスを感じる。
今は日常会話で「気分転換」として使うには珍しい言葉のようだけど、個人的にはこの言葉のもつニュアンスが、一番自分の気分転換スタイルに近い気がする。
◆ die Erfrischung
気分転換と同時に清涼飲料水のことも表せるこの言葉。frisch は英語の fresh と非常によく似ている。erfrischen( frischにする→元気を回復させる・さわやかにする)という動詞は、コーヒーを飲んだり、シャワーを浴びたりしてさっぱりすることを表す。
◆ die Zerstreuung
動詞の zerstreuen は分散・まき散らすこと。風で木の葉が散ったり、光が拡散して広がったりすることと並んで、気持ちの変化を表せる。気分転換のなかでも、気晴らしという表現がぴったりだと感じる。
形容詞の zerstreut は、ぼんやりして散漫な、うわの空の、という意味で、気持ちの矢印が枝分かれして的に向かっていない様子が見てとれる。
気晴らしと気分転換の違いを考えたときに、思い浮かぶのは気分の出発点の違い。
前者の方が、しんどさを伴う状態からの出発や、そのしんどさがしばらく続いていたあとでのポジティブな変化を指すことが多いと感じる。
気分転換にコーヒーを飲みに行こう、といえば、仕事や勉強が一段落して元気をすこし満たすという風に聞こえるし、気晴らしにコーヒーを飲みに行こう、といえば、しばらく考え続けてもいい案が浮かばなかったり、落ち着かないとか気落ちすると感じていたりする場合を連想する。
ここまできて気づいたことは、これらの言葉の使い分けが、何をするかではなく、どこに焦点をあてるかの違いだということ。
同じコーヒーを飲むという気分転換であっても、それが自分を frischな(新鮮で生き生きとした)状態にしたいからなのか、それとも今考えていることをちょっと一旦わきへ置いておきたいからなのか。
稲作や畑仕事の手伝いに行くと、頃合いをみて「お茶にしましょうね」と声をかけてくれる人が必ずいる。
積極的におしゃべりをするわけでもなく、みんなで机を囲んだり、畑の近くの木陰に座ったりしながらお茶をのみ、おやつを食べる。そういう静かな時間が私はとても好きだということに初めて気づいたとき、そうか、これをひとりでもやればいいのかと気づいてはっとした。
スウェーデンの Fika やイギリスの Tea Time などは、文化としてよく知られているけれど、本来は自分がすきなときに、あるいは身体が欲しているときに、休憩や水分、甘いものや元気を満たしてくれるものを補給できることが、結果的に、仕事や勉強、やるべきことにも活きてくるのだと思う。
生活の場では見出しづらい憩いの場も、旅においては灯台下暗しであったりする。
湖に足を浸しているとどこからともなく一羽の鴨がやってくる。
ぴゅいとひと漕ぎしてもう行ってしまうのかなと背中を見つめていたら、すこしの間つかず離れずの距離で泳いでくれる。
安らぎをもとめて街やどこかからやってきた人々が乗るボートが遠くの方でゆっくりと水面を行き交う。
水から上がった鴨たちは、あたりをひとしきり探索したあとで、まるくなって羽を休めている。
そういうちいさな光景がずっと心のなかにあって、
傍らにはいつも言葉がある。


2023.06.18 u
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