12. コーヒーカップの底に。
- u
- 2022年9月15日
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更新日:2月15日
*zwölf(ツヴェルフ)=ドイツ語で「12」

ドイツ語に Kaffeesatz(抽出後のコーヒーかす・カップの底に残る沈殿したコーヒーの粉)という単語があるのを辞書で見つけた。
この Satz は、動詞の setzen (座る・沈殿する)が名詞になったものだ。
Der Kaffeesatz hat sich gesetzt, nachdem der Kaffee kalt geworden ist.
"コーヒーが冷めて、かすが沈殿している" というこの文章で、人が腰掛けるのと同じ言葉を用いることが新鮮だ。
Satz には文、文章という一番よく知られた意味があり、同時に、定理や命題といった学術的な用語でもある。音楽の1楽章や、球技の1セットという意味もある。
出し殻、かすという意味では、英語の the dregs と近い。drink it to the dregs(カスまで飲む→一滴残らず飲み干す)という表現は、カップの底にざらついたかすだけが残っている様子を連想させる。
dreg の比喩的な使い方である "あいつはクズ・カスだ" と言う場合には、 ドイツ語だと Auswurf という言葉を使うようだ。喉に絡む痰や、火山の噴出という意味もある。吐き出された残留物というくくりなのだろう。 Bodensatz(底のカス→沈殿物・最下層)という語もある。
辞書で Kaffeesatz を見つけたとき、日本語の「コーヒーかす」は、あくまでコーヒーのかすを省略したもので、1つの単語として固定化されたものではないと認識していたことに気づく。同じ “かす” でも、酒粕は既に1単語として私のなかの日本語に定着している。どちらかというと、「茶殻」の方がこの Satz に近い印象がある。
同じく複合語の Kaffeesatz は、外国語としてドイツ語を学ぶ私にとって、はっきりと1つの単語に見える。この、ドイツ語を学んだことがある人でも一生出会わないかもしれない言葉を見つけたとき、心が動いた。イメージしているものを言葉で表出できるよろこびというのは、複雑な思考や解釈よりも、こういう生活に根差したほんのささいな一言に対して湧き出たりする。
かす、沈殿物という物体を名づけることは、動きと変化を孕んでいる。かすは、元々あったコーヒー豆の粉が、湯と混ざって抽出されたあとの殻だったり、水に溶け切らなかった粒の残留だったりする。そういう一連の変化を内包する1語だと思う。ふと、今の自分が置かれている人生の状況と重なる。
今、この地球上で、明確な何かに向かっていない生活を送っている人がどれだけいるのだろうか。そう自覚して、今日も生きている人が。
学業での、課題。仕事での、業務。家庭での、役割。
それらは、ときに人を型にはめ、時間に追われ、日々を繰り返し的なものにすると同時に、明日向かうべき場所、今日を過ごすための方法を与えてくれるだろう。
ひとたびそれらが手を離れれば、たちまち今日から先は白紙となり、それでも、時間だけは歩を緩めることなく私を追い越そうとして拮抗する。
街にうごめく見知らぬ顔した人だかりも、みなどこかに向かっているように見えて、立ち止まることがなく、せわしない。
私はただ机に向かって、ペンを手に、一本の線を書き出せずに震えている。思い描いていた現実とは大きく違うものになった今を受けて、特に、思うようにいかないことの割合が大きくなった毎日のなかで、今日を、生きた時間を積み重ねていくしかない、というのが今の思いだ。
明確な何事にも向かっていない宙吊りの心境は、不安定で、考えることをすぐにすっぽりと覆ってしまって、困ってしまう。思い返してみれば、こんなにも何にも向かっていない時間は人生ではじめてかもしれないと気づく。
この予期せぬ空白期間は、今まで視界に入っていても認識できていなかったことたちに焦点をあて、時間的・心理的余裕のなさからできてこなかったことをおこなうきっかけになったとともに、果てしない「漠」を私にもたらした。
砂漠のように果てしなく、漠然としてとりとめのない、現実。
何かを探し求めることを休み、自分をひらいて世界を受け止めようとするとき、不思議と語りかけてくる声が、以前よりはっきりと聞こえることがある。読むことができずに本棚に積んでいた本。読み始めたけれど、今ではないな、と思って栞をはさんでいた本。久しぶりに手に取ってみると、よくぞここまで届けてくれた、出会えてよかった、と胸が震えることが度々ある。
人の表現にふれて自分のなかに残るものは、意外とうまみではないのかもしれない。
たとえば心に残る会話は、話している最中の熱中や楽しさよりも、もっと別の場面が印象に刻まれていたりする。その人と分かれて、互いの生活に戻って、またいつもの生活のリズムにその時間が溶けていき、数か月して、数年が経ち、いつものようになにか考え事をしていて、そういえばあのとき、と思い出す。
映画を見た後で、エンドロールが流れ、会場に薄明かりが灯り、人だかりの波が引いていき、ひとり夜のしじまの中に取り残され、目をこすりながら会場を後にし、外気が思いのほかつめたくて、ちょっと早歩きになって、電車を待つ駅のホームで、さっき脳裏に焼き付けられた画が、流れる。そんなことを忘れて、また日々を過ごして、手元の小さな画面上を流れる文字の羅列の中に、ふとその映画の名前が見えたとき、かつて観た映像が記憶の底から呼び戻され、無性にまた、あの世界に浸りたいと思う。
淹れたてのコーヒーのおいしさは、その瞬間の幸せでありながら、飲み干したあとの、底に残されたかすが思い出させるものなのかもしれない。時間を経て私のなかに残り続けるのは、そういう断片のほう。
おいしさの詰まった、上澄みだけを摂取するよう促される日々。飲み干せば、何が残るだろう。空っぽの器だけが残ることはないだろうか。
散歩は、沈殿物を掬うような働きかけ。無尽蔵に広がる言葉の海に沈む、ひとつの小石を拾い集めているようなものだ。
辞書の隅っこに小さい文字で書かれた単語は、今はもう使われていないどころか、母語話者でも知らない言葉だったりする。けれど、おもしろい単語を見つけて、そこから想像がふくらんで、発想のちがいにときめいて、心が旅人になる。そういう瞬間に、よろこびを感じる。
飲み干したカップの底のコーヒーかすのように、この日々が終わっても、この星の誰かにとって味わいものが残っていたらいいなと思う。
2022.09.15 u
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