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3. 私をめぐる果てしない旅。

  • u
  • 2022年5月25日
  • 読了時間: 4分

更新日:2月15日

*Tre(トレ)=イタリア語で「3」 


ぼく おれ わし

わたし うち わたくし 

あたし わい おら じぶん

     

ここにないものまで、日本語には実に多様な「私」をあらわす言葉がある。


自身を振り返ると、幼少期には記憶の彼方に名前呼びだった頃もあるだろうし、うち、わたし、自分と言っていた時期もある。ごく限られた場面では「わたくし」と呼ぶことを求められたり、迷走の跡が見えてくる。


誰と話すか、どういった場面なのかによって変化するので、特別意識していない人でも複数の呼び方を使い分けていることはあるだろう。


こんなに選択肢があっても、ひとつとしてしっくりくる自分の呼び方に出会ったことがない。


ぼくではなく、おれ。

わたし」ではなく、うち。


そこに選択の意図が大してなくても、あえてそれを使っている、キャラ付けとして見えてしまうことに違和感を覚えてしまう。

まるで時と場合によって自分を使い分け、「わたし」を演じながら話しているような気分になってくる。

ある人称を選んだ時点で、ある程度性別や、性格や、年齢層に対する先入観を持たれやすいのも難しい。


人称と自分自身のアイデンティティとのギャップを感じてきた背景には、これまで接してきたメディアや物語の中で、人称が意図的に使い分けられていたことが影響しているだろう。

たった一文をとっても、「ワシは、激動の時代を生き抜いてきた」と「私は、激動の時代を生き抜いてきた」では、明らかに見えてくる人物像が違う。だからこそ、翻訳された物語を知っていて改めて原書を読むとき、登場人物から連想していたイメージが、翻訳の人称に影響されていると気づくことも多々ある。


中立的な、ボーダーレスな呼び名はほとんど存在せず、性別、年齢、性格、生まれ育った地域などで区分けされて、どの呼び名も限定的で、何らかの立ち位置のラインを示してしまう。


「うちはね」と話す私は、どこか気さくで快活で、芯があるように見えたり、「わたくしは」と話す私は、丁重で、形式的で、カタく見えるかもしれない。


ビジネスマナーの厳しい業界などで、職場で非常に丁寧な言葉遣いをしていた人が、プライベートでは全然違った喋り方をしていて、言葉だけじゃなく、声音や表情までも別人のように見えることも珍しくない。

英語やドイツ語では、老若男女問わず共通の「私」で話す。それがしっくりきているのかはわからないけれど、中立的な感覚になる。


フランス語やイタリア語では、自分の状態を表すときに性別によって語尾変化の区別があり、ドイツ語でも、職業などを言うときには男女の区別がある。文法規則に沿って、男はこちら、女はこちらと変化表で言い方を確認するとき、日本語の人称と同じように、自分を分類する感じがする。



こうして改めて考えてみると、日本語以外で話すときは、人称よりもむしろ言語自体で自分の調子が変化することに気づく。話す言語ごとに違う自分の人物像があって、そのすべてが自分だと感じるのだ。



英語で話すときは、抑揚があって、軽快で、いつもより声が高く、


ドイツ語では、厳密で論理的な文構造、伸ばす音や強い音を軸に流れるように話し、


フランス語では、綴りより音をイメージしていて、回ったり跳ねたりして踊るように話し、


イタリア語では、詩を詠むように韻とリズムを楽しんで、朗らかに話している。



そのどれもがまぎれもない自分であり、どれも嘘じゃない。


これは、複数言語に限った話ではなく、

きっと、生涯日本語だけを話したとしても同じことだろう。

友人と話すとき、そのなかでも特に盛り上がっているとき、

仕事でお客さんと話すとき、


初めて行くお店で話すとき、行き慣れたお店で何かを尋ねるとき、

家に帰って独り言をつぶやくとき、

そのどれもが違った自分の一面であり、まぎれもない自分なのだと思う。

複数の言語にふれてはじめて、そのことを身体で受け入れつつある気がしている。

それは、誰かの中にある色々なその人を認めることにもつながっていく。



日本語だけが聞こえる街で、日本語を話して生きていても

いろんなリズムの、音の高さの、丸みや尖りの、話し方がある。

私の中で踊っている色々な私と一緒に、

まだ見ぬ私との出会いを待ち望んでいる。



2022.05.25  u  



 
 
 

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