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7. 消化に悪いわたしと、ほろほろのすね肉。

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  • 2022年7月17日
  • 読了時間: 5分

更新日:2月15日

*Sieben(ズィーベン)=ドイツ語で「7」




前回紹介したドイツ語の慣用句、


jemandem die(den)Daumen drücken

 

人に親指を押し出す → 人の幸運を祈る・応援する。



動詞 drücken(押す、押しつける)には、今の季節、つい口にしてしまいそうな表現がある。


Die Hitze drückt.


Hitze は暑さのこと。暑気がぐりぐりと皮膚に押し付けられるような、焼けつくような暑さだという意味になる。



drücken には、手紙にシーリングスタンプを押すという意味もあるので、私の脳内には、微風も入り込む隙間のない熱のかたまりが密着してくるようなひりひりしたイメージが浮かぶ。ほかにも、drücken には身体性に富んだ表現が複数ある。



Mein rechter Schuh drückt.

 

右の靴が押し付けてくる → 靴がきつい



Das Essen drückt im Magen.

 

この料理は胃の中で圧迫する → 胃にもたれる



どちらも靴や食事という非生物を主語にしながら、各場面特有の圧迫感ある身体感覚を表現している。


胃もたれの反対は?と思い返すと、“verträglich” という単語を最近見たばかりだった。


意味は、消化のよい、胃に負担をかけない、人と折り合いのいい(性格)、協調性のある(人)、など、不思議な組み合わせが並ぶ。


verträglich は vertragen という動詞から変形したもので、強い酒や寒さ、暑さなど身体的な負荷に耐えられる、(食べ物を)受け付けるという意味や、(批判などを)我慢できる、仲良くやっていく(いる)、調和しているというときに用いられる。



さらに根元の tragen という動詞には、持ち運ぶ、抱える、(衣服などを)身に着けている、(責任などを)引き受ける、支える、載せるなどの意味がある。



そこに基礎語の意味を強める ver がついたことで、ある物を上に載せて、抱えて支えることから、さらに踏み込んだ、受け入れるという意味になっているようだ。



消化にいい人、胃もたれしない人。


「あの人はとても付き合いやすい人柄だ」というときに、「あの人、すごく消化にいい」という字面が並ぶのは、とても衝撃的でユーモラスに見える。外国語を勉強していて楽しいのは、こういう些細な瞬間かもしれない。




同時に、受け入れることが協調性を生むのだろうか?という疑問がふつふつと沸く。


「調和」ということを表現するなら、私は音楽を背景にする “harmonisch” という言葉を使いたい。響き合う旋律の中で、複数の異なる音が、紛れることなく存在し続ける。合っていることは、一致ではない、と信じている。






先日、ドイツ語の単語を調べていて辞典の“m”の列を見ていると、視界の端で、ある見慣れない単語が目に留まった。


mürbe という形容詞で、 (果物・肉などが)柔らかい、(古くなって)もろいという意味があるらしい。日本語でいうなら、「ほろほろの」という表現がぴったりな気がする。



さらに、その頁の下には mürbe machen(mürbeな状態にする)という動詞があり、(人の)気力(戦意)をくじくという意味で用いられるとのこと。




赤ワインでじっくり煮込んだほろほろの牛すね肉、熟しているうちに旬を通りこしてしまったほろほろのイチジクの果肉、長い間吹きさらしにされていたほろほろの木綿布……が何をどうしたら他人の気力をくじくことになるのか。

 


WEB版のDudenで引いてみると、三つの基本的な意味が示されていたので和訳してみる。


①     咀嚼することがたやすく、簡単に小片となり崩れ落ちる状態。


②     経年や摩耗によって、物質としての強度を失っている状態。


③ 持続的でネガティブな作用を受け続け、そのもの固有の張りのある弾力や人間でいう気力、さらに抵抗力を失っている状態。

 

 

 

南ドイツ、オーストリアで主に用いられるらしいこの単語によると、じっくり煮込んだすね肉の食感は、持続的でネガティブな作用を受け続けた結果と同じ字であらわす、というのが新鮮な驚きだ。


もちろん、ひとつの単語は複数の要素を取り込んで現代まで受け継がれているので、要素同士に直接のつながりがないことは多い。



一方で、煮込むという行為には、うまみが凝縮され、具材が生き物として存在していた頃活躍していたあらゆる繊維がほどけ、火が通るとともに香り立つイメージを勝手に抱いていただけに、ぽかん、としてしまった。



ふと連想したのは、ドイツのパン作りについてよく言われるエピソード。ドイツのパンに慣れている人が日本に来て、まずパンの味のなさと歯ごたえのなさに衝撃を受けるという話だ。


たしかに、ドイツでのパン作りは栄養を豊富に含んだ雑穀、ライ麦やカボチャの種、ヒマワリの種などをふんだんに使用し、生きた酵母菌の発酵を経て生み出される独特の酸味と、歯を入れると押し返してくるような噛み応えを大事にしている印象がある。




そう考えると、肉の弾力はあるいみ生命力の表れであり、それをなくすことは、ある側面では持続的でネガティブな作用といえるのかもしれない。





自分という人間の弾力はいかほどか?と考えてみる。


いま、だれかに押されたら跳ね返すだけの張りのある弾力があるだろうか。


抑圧への抵抗と反発。


「黙って言うことを聞いていたら美味く調理してやるから」


「そうしたらきっとおいしく食べてもらえるぞ」


という言葉に挫けず、自身の弾力を守りぬけるか。



言葉巧みな料理人をかわし、適温と適度なスパイスで


常に用意され続けている鍋に、飛び込む前に、自らを省みる。




言語とのふれあいは私ひとり分の想像の範囲内にあるので、あくまで正解も目的地もないただの散歩でしかない。



どうにかして想像の海、自分という離島の外へ出たいというこの試みは、自分がほろほろにされてしまわない限りは続いていくような気がしている。




2022.07.17  u  

 
 
 

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