16. プードルになる夜、山のたてがみ。
- u
- 2022年11月10日
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更新日:2月15日
*Sechzehn(ゼヒツェーン)=ドイツ語で「16」

言葉を知ることは、他者の “ものの見立て” を知ることでもある。
それまで誰とも共有できなかった体験、現象、観念の数々が、単語という形で名前をあたえられた瞬間に、自分だけのものではなくなることがある。
自分の中でさえ腹落ちしていなかった有象無象が、輪郭のある像として立体的になる。そこに、形容するということの可能性と限界を感じる。
形容によって可能になること、形容によって失われるもの。
言語にふれていると、自分にとってあたらしい見立てに出会うことが多い。
言語が人間の思考をどれほど決定づけるかどうかはさておき、まったくべつな気候の、地形の、街の、異なる秩序体型と歴史と背景をもつ言語を話すひとたちは、ときどき私が一生かかっても思いつかないであろう、もののとらえ方を教えてくれる。
たとえば、ドイツ語の “wie ein begossener Pudel (水をかけられたプードルのように)” という口語表現は、しょんぼりと、すごすごとなどと訳される。厳しくとがめられたりしたあとで、がっかりしたり、ばつがわるかったりしてしゅんとしている様子を表せる。
水をかけられたプードルが実際はどんな気持ちかぜひ知ってみたいけれど、いつもは毛量ゆたかで空気を存分に含んだ丸みのある見た目のプードルが、水に濡れると思いのほか華奢で、骨ばっていて、顔つきもどこか悲哀を感じさせる様子には見覚えがある。この口語表現を最初に思いついた人にも、そういう経験があったのだろうか。
ほかにも pudelnackt(素っ裸の) という言葉は、プードルとnackt(裸の、毛のない)が組み合わさった単語で、pudelnass(びしょぬれの)は、プードルと nass(ぬれた、湿った)という語の複合語だ。いずれもカジュアルな口語表現で、使用頻度は低い様子。
犬の名前が入った口語表現というだけでも十分新鮮だけれど、数ある犬種の中でプードルだったことが印象深い。

ドイツ語の比喩表現をもう少し探ってみたくなる。
ものの形状にたとえた表現には、kerzengerade(垂直の)という言葉がある。
単語の前半部分に入っている die Kerze は蝋燭のことで、gerade はまっすぐ・直線的という意味。直立した状態や、道をまっすぐ進むときなどにも使う。(同じ綴りで、(時間的に)ちょうど、(場所的に)まさに、という意味を表す単語もある。)ここでは、ろうそくのように棒立ちの、という意味になる。
見晴らしのいい平原に、ろうそくを突き立てたようにまっすぐ立ち並ぶ木々。
目の前で微動だにせず、直立不動の人を指すこともあるだろう。漫画なら、押せばポキッと折れてしまいそうな硬直。
蝋燭と直立、その光景を頭の中で重ねながら、和蝋燭だと中心にくびれがあるものが多いけれど、ここでは洋式の、直線的なあの蝋燭なのだなということを改めて思う。
ドイツ語で、特に新鮮な見立て方を感じる言葉は、自然に関する語句が多いと感じる。
海流によって運ばれた砂が堆積してできる砂嘴(さし)は、ドイツ語で(die)Landzunge(陸の舌)と表現する。それを踏まえて空撮された砂嘴の写真を見ていると、途端に、陸という生き物がその長い舌で海を巻き取ろうとしているように見えてくる。
日本語では、砂のくちばし。日本語を勉強している人から見れば、この言葉も愉快な例えに違いない。
英語では砂嘴に対して sand spit という表現があるらしく、海や川に細く突き出た砂の陸地という意味のようだ。spit を調べてみると、名詞として、焼き串、砂州、岬などの意味があるらしい。全く同じ綴りでべつの spit があり、唾を吐く、雨・雪がぱらぱらと降る、スラングではラップをするなどの意味が並ぶ。
ユニークで動的な自然にまつわる複合語の中でも、わたしが特に気に入っている言葉は "(der)Bergkamm" で、山の背、尾根を表す。
(der)Berg は山、(der)Kamm は(髪などをとかす)櫛、(にわとりの)とさか、(馬などの)たてがみとともに、山の背・波頭という意味をもつ。
いつ頃から Kamm 自体に山の背という意味があるのか、もしくは Bergkamm という表現が一般化した後の省略としての意味なのかはわからないけれど、一目で、山のたてがみだ、と思った。
山の背が、隆々とした筋肉質な馬の背と重なる。
あの山脈は、群れで動く馬たちなのかもしれない。
遠くで、ドイツ南部やアルプスの山々に登ったかもしれない誰かが、見渡す山々の尾根に馬の背を重ねたのだとしたら、想像するだけで胸がいっぱいになる。
言語を学ぶたのしさ、よろこびの中には、会ったこともなく、これから先も会うことが叶わない誰かとの出会いが溶け込んでいる。取り込んでは取り出す知識や情報ではなく、身体に新しい回路をつくる化学反応みたいだ。
言語は単体で存在しえず、そこにはかならず話す人の存在がある。
目の前の現実にしばしば打ちのめされるけれど、言葉は、濡れプードルのような私にも時々ここじゃない居場所をくれる。

2022.11.10 u
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