15. 木箱のことばと言葉のポケット。
- u
- 2022年10月15日
- 読了時間: 5分
更新日:2月15日
*Quince(キンセ)=スペイン語で「15」、英語でマルメロ・花梨(英語発音:クウィンス)

ある対談番組について勉強中の言語で話していて、「お互いに違う分野を追求している人同士のやりとりだからこそ起こる “化学反応” がおもしろい」と言いたいのに、「違う専門をもつ人同士の話っておもしろい」という言葉を使ったなら、私の中に、もやが残る。
私が惹かれるのは内容としておもしろい話じゃなくて、本気でなにかを突き詰めている人同士に起こる、火花散る摩擦ともいうべき、魂の衝突。そういう抽象的な感覚を、流れる会話の中で、一回で文章に落とし込むのは至難の業だ。ある程度親和性の高い相手でも、その「感覚」を呼び起こすようなフックとなるキーワードが必要になる。
母語でもそういう場面には苦労するけれど、外国語であればなおさらそういう単語を引き出すのは難しい。大抵会話の後で、「あっ!!!」と思い出し、この言葉があれば言いたかったことをもっと円滑に伝えられたのに、と肩を落とすことになる。こうした会話の一回性、再現不可能な側面が、会話の瞬間を生き生きとさせるかわりに心に地層をつくっていく。
だからこそ、こうして誰に宛てることもなく文章を書いて、自分の底に溜まるものを掘り返しているのかもしれない。
予習して、今日話すために調べた単語や熟語をメモして、会話レッスンでノートに書いた通りに読み上げることができても、生き生きとしたよろこびは全くやって来ない。
それはピストルにこめた弾を撃つだけのことで、引き金を引く勇気さえあれば出せてしまうからだ。そして何回でも撃ち出せるかわりに、放たれた弾はもう手元にない。
よろこびは、しまっていたものが必要な場面で生かされたときにやってくる。
ドイツ語には “auskramen” という動詞がある。
物理的な意味と抽象的な意味があり、ひとつは古い写真や手紙を引き出しなどからごそごそ探し出すという意味。もうひとつは、しばらく(もしくは長いあいだ)忘れられていたことを人や世間が思い出すという意味。
この動詞は分離動詞で、外へ、というニュアンスをもつ aus と、kramen という動詞が一体になっている。
kramen には、単体でも物を探してごそごそする、記憶のなかで呼び起こす、という意味がある。
kramen は探している最中のごそごそする動作自体に焦点が合っていて、一方 auskramen は、もっと身を入れて探すときの言い方で、物が見つかったり、見つからなかったりという結果までを含むイメージが強い。
例文を見てみると、次のような感じ。
◆ auskramen
Er kramte alte Fotografien, Briefe aus der Schublade aus.
(彼は古い写真や手紙類を引き出しからごそごそ探し出した。)
Sie hat die ganze Kiste ausgekramt, ohne das Gesuchte zu finden.
(彼女は木箱をすっからかんにして探したが、探し物は見つからなかった。)
◆ kramen
Sie kramte alte Fotos in der Schublade.
(彼女は引き出しの古い写真をごそごそ探した。)
Er kramt nach Kleingeld in der (Hosen)Tasche.
(彼はポケットで小銭をごそごそ探す/探している。)
kramen と同じ語源をもつ (der) Kram という単語があって、つまらないもの、がらくた、片付けるべき雑用などを意味する上に、カジュアルな口語表現で持ち物やモノを表す。
大事に整理して入れられているものではなくて、引き出しやポケットに無造作に突っ込まれているものたちから派生したのだろうか。不思議と愛着が湧くことばだ。
ごそごそ探すといえば、wühlen という別の単語がドイツ語にある。
犬が庭の土を掘るその動作と、心の奥底にある感情や、記憶を深く掘り起こすこと、ちょっと苛々しながら、せかせかと探し物をすることが同じ言葉で表せる。
こうしたドイツ語をはじめとする言語の発想のおもしろさ、思わぬところにつながる感覚のよろこびを知るきっかけになった大きな要素は、多和田葉子の著作だ。
『エクソフォニー』(2003)に次のような一節がある。
言葉を小説の書けるような形で記憶するためには、倉庫に次々木箱を運び入れるように記憶するのではだめで、新しい単語が元々蓄積されているいろいろな単語と血管で繋がらないといけない。しかも、一対一で繋がるわけではない。そのため、一個言葉が入るだけで、生命体全体に組み換えが起こり、エネルギーの消費がすさまじい。だから、簡単に新しい言語を取り入れていくことができない。
多和田葉子『エクソフォニー ——母語の外へ出る旅』(岩波書店)p31
ひとつひとつ「木箱を運び入れるように」言葉を覚えると、取り出すときもまたひとつひとつ木箱を開けていくことになる。だから、次使うときにすぐ分かるように、箱にラベルを貼ったり、倉庫をあいうえお順に整頓したりする必要がある。試験や実用での語学学習は、この方法で問題なさそうだ。
でも、会話や表現ではそうはいかない。
“これが言いたい” と心で思いながらずらっと並んだ木箱を漁っていると、ひとつ、またひとつと木箱をあけるうちに、言いたいことが逃げていく。ようやく一つ掴んだ頃には、それが文法的には適切な言葉だけれど、ここの土では咲かない花だということに気づく。
この言葉、そんな風にも言えちゃうのか、とか、そんな顔ももっていたのねという、自分の中に構築されかけていた木箱を解体してくれるような出会い。熱い血の通った、誰かのことば。私の中で生き続ける、誰かの一部。
そういう出会いを求めつつ、もっと気の抜けた、あてどない散歩も私には必要だ。
拾い集めたわずかなことばを、無造作で整頓しすぎず、何でもないただのがらくたのように見えながら、自分に一番近いところに身に着けて、大切にしている。
そんなポケットに、どんな言葉を入れようか。
2022.10.15 u
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