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9. ほほえむ言葉。

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  • 2022年8月10日
  • 読了時間: 6分

更新日:2月15日

*Nine(ナイン)=英語で「9」




日常的にオンラインで会話レッスンを受けるようになり、会話のちがいについて考えることが増えた。


「機械的な会話」と「生きた会話」のちがいは?


毎回、同じ教材に則ったカリキュラムに沿って進めていても、講師が違えば授業後の皮膚感覚は大きく異なると気づく。「講師」と役割で人のことを称することで、それぞれの方々の人間としての総体から多くがそぎ落とされてしまうのは不本意だけれど、ここではご容赦願いたい。



そのレッスンは、日程と講師を自分で選んで予約するもので、講師が定期で授業をしていれば、一応は決まった講師だけにお願いすることも可能な仕組みになっている。


私はいろいろなタイプの人と会話したいこともあり、毎回別の講師にお願いしている。



すると、自分のコンディションの違いを抜きにしても、レッスン後、その日の会話行為から得る身体感覚が、本当に別のもののように違っていることに気づく。普段は、挨拶程度のやりとりを別にすれば、ある程度見知った人としか会話することがなかった。


こんな風に、出会っては話し、を繰り返すことで、自分がどういうコミュニケーションスタイルの人と話しやすく感じるのか、どういう英語の話し方を心地よく感じ、そうなりたいと憧れるのかをより濃く意識できた。




会話がとても盛り上がった2日前のレッスン後、あぁ、今日の会話は、人間同士のやりとりだったなと、突然思った。突然思ったけれど降って湧いた訳ではなく、それまでに言語化できずにうすうす感じていたことに気づかされた。



もちろん、どの講師も学習者である私をとても尊重してくれ、丁寧に会話してくれる。学習者の目標や要望に合わせて、それに即した協力をしてくれる。


言い間違いには訂正を、授業後にはフィードバックをくれる。


ただ、その会話と時間の対価はお金であり、講師は教える人で、受講者は学ぶ人である。こんな風に単純化して言葉にすると、それもたしかな気がしてきてしまう。


私たちが今こうして会話しているのは、労働とサービス享受の名のもとに、義務的な力が働いているからだという思いが、いつも心のどこかにはある。



画面越しに、べつな人間が座っていたとしても成り立ちうる会話。教える人と、学ぶ人であればだれでも、成立してしまうような会話。言語を学び、文化を知るということは、時々そういう、没個性的で匿名性の高いやりとりに直結する。



言語交換サービスを利用して各国の人とやりとりをして感じる葛藤のなかにも、個人として扱われず、一人の日本人としてしか見られていないときの虚しさがある。知り合って間もないのに突然日本で訪れるべき場所やおすすめを求められたり、もうすぐ日本を旅行予定だから気をつけることを教えてくれと言われたりすると、つい真面目に答える気がなくなってしまう。


なかには「日本の文化が好きで、日本人と仲良くなりたいんだよね、よろしく!」的なことを直接平気でぶつけてくる人もいて、悪気がないからこそ心が受け付けない。



一方で、同じ場所でも初めから互いに個人として接することができる人と出会ったとき、その会話は広がりながらドライブし、相手を少し知った上で、お気に入りの場所や自分の好きなものについて自然と意見を交換できる。そういう段階を抜きにして得られるおすすめや有益な情報なら、検索窓に投げ込めばいい、と匙を投げることにしよう。





会話する人と人の、立ち位置、立場、目線、目的、意識、意図。




会話のレッスンでは受講者が伸ばしたい技能や目標を設定でき、私は、できる限りアウトプットさせてほしいとお願いしている。講師によっては、質問者となり、私の話を引き出してくれる人もいる。



笑顔と凛とした声が素敵な2日前の講師は、基本的には私の話を聞きつつ、話へのリアクションとして、所々で個人的な見解や自身の経験を聞かせてくれた。投げかけてくれる質問も、トピックスに対してよく聞かれるものではなく、彼女の視点や興味関心を感じられるものだった。


私はそこにいる一人の人間としての相手を見出し、相手も私の話を受講者としてではなく、一人の人間として見てくれている気がした。



私が望んでいた会話の対等さ、とはこういうことだったのかもしれない。



目の前にいるあなたには、生きてきた昨日があり、歩いてきた道がある。そのことを分かった上で、今のあなたに目線を投げかける。興味を向ける。





教授者と学習者という構図は、わかりやすいパワーバランスを生みやすい。


与える側と、与えられる側。その分野に知識がある者と、知識がない者。



ネイティブスピーカーと非ネイティブにも、そういう構図が生じやすい。特に、語義や文法の正解と不正解みたいな話になると、「閉塞させる正しさ」が蔓延する。


何気ないひとことが、目の前のその人の歩いてきた道を無視し、今その人の中で生きようとしている新しい芽を摘み取ろうとする。




学習言語で言いたいことがうまく伝わらないときのことを思い出す。


講師は、液体になった私の言葉を型に流し込み、あなたが言いたいのはこういうこと?と取り出してくれる。それは、たしかに意味としては間違っていなくて、シンプルで伝わりやすい文章になっている。けれど、そこには私がこねた跡形もなくなっており、ここに 'ある' のに言葉にできないもどかしさに、私は食い下がって「いや、もっとこういうニュアンスで言いたくて、こうこうで…」と助けを求める。



それでもうまくかみ合わないと、まあ、言いたいことは何となくわかったよ、と次の話題へ進んでしまう。こねかけの生地は置き去りのまま、心には腑に落ちないもやが残る。




日本語でも、何かが伝わること、伝わる形にすることはとても難しい。伝えようと必死に言葉を変えてこね続けても、もう一方の焼き窯は十分に熱されていなくて、いつまでもパンにならないなんてことはよくある。



焼きあがることのないパン生地をこね続けるだけの会話でも、相手がふとこぼした一言から、ここでそんな言い方ができるのか…、とか、まさにそれ!という発見もある。置き去りにされた生地はこねた分だけひとりでに発酵を続ける。忘れた頃に、パンではないけどおいしい何かになっていたり、食べられないけどとってもツヤツヤして魅力的なオブジェになっていたりする。





まだ自信のない勉強中の言語で話すとき。


緊張しながら喉を絞って話し始めて、相手がにこやかに笑いかけてくれたときの、背中がじわぁっとほぐれる感覚。正しさに限定せず、言葉をおもしろがることができる土壌。




会話の種類が機械的になるか、生きたものになるのかを左右するのは、何を言うか、という結果ではなく、目の前にいる人を認識し、その人がその人然としていることを知っていること、 acknowledgement(存在承認)なのではないか。



人の言語能力を評価する結果承認でも、与えられた役割とパターンをこなす代わりに帰属意識を受け取る社会的承認でもなく、ただそこに存在する人のあり方、その人らしくあることを、あなたはそうなんだ、と知っていること。



言語を学んでいても、ことばについて知ること自体がよろこびであっても、やはりだれかとの会話には、人間の生き生きとした部分を感じていたいし、ほほえむ言葉で話したいな、と思う。



2022.08.10  u  

 
 
 

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