6. 木を見て森を見ずか、木に森を見出すか。
- u
- 2022年7月5日
- 読了時間: 5分
更新日:2月15日
*kuusi(クーシ)=フィンランド語で「6」「もみの木」

先日、何気なくドイツ語でやりとりをしていて、つい誰かに話してしまいたくなるようなうれしい出来事があった。
目に飛び込んできた、「あなたに両親指を押し出す」という文字。
それはドイツ語のイディオムで “~ den Daumen drücken”(~に向かって方親指を押し出す=グーサイン)という表現なのだけれど、承認・肯定を表す英語の thums up(親指を上げる)とは少し違った、相手の幸運を祈るという意味がある。背中を押す、応援の一言。
やりとりの延長線上で唐突に文字として現れると、不思議なおもしろさを感じる。
しかも、やりとりの相手は、親指を複数形( “~ die Daumen drücken”=両手 )で書いてくれた。
文字を見た瞬間に彼女が両手のグーサインをこちらに向けてくれる様子が想像できたし、使い古された表現でも、ごく一部の違いでそんな風に新鮮に感じることがあるのか、と型としてのイディオムのあたらしい可能性を感じてますます心が躍った。
そういえば、ドイツ語の文章を読んでいると、感覚に訴えるような心惹かれる単語が多い。
最近のお気に入りをいくつか並べてみる。
◆ überschatten
über は、上方に、上方一体を覆うというイメージの単語で、Schatten は影。
二つが合わさったこの動詞は、影で覆う、影を落とすという意味から派生して、問題をもたらすというニュアンスで用いられる。
この語を見ると、同じ影でもなぜか心地いい木陰ではなく、嵐の前の雨雲が視界を埋め尽くし、昼なのか夜なのかわからないような感覚に覆われる。
◆ auftauchen
auf は、上にという意味で、ある面の上にぴったりくっついているイメージがある。動詞の先頭で、ある面に向かって、という方向を与えることが多い。そこが水中であれば、上に向かってということになるだろう。
tauchen には、潜水する・水をくぐるという意味があり、この二つで、浮上する・突然現れるという意味になる。例えば、心にふっと浮かんだ感情についてなど。
この表現を見つけて、自分が心の中にひそかに思い描いていたちいさな湖が、ほかの誰かの心の中にもあるのだろうかと思った。感情や思いが発生する場所、浮かぶはやさはその時々だけれど、それが水をくぐってゆらめいて出てくるのか、ランプをつけるように瞬間的なものなのか、目を凝らしてみたい。
◆ gravierend
gravieren という動詞は、彫刻するという意味で、ここでは形容詞として、刻まれている、重大なという意味で用いられる。
特に、取返しのつかない損失や見誤りなどについて用いられることが多く、一度石に彫刻を施すと後戻りができない感じがあいまって、とても緊張感のある単語に見える。
◆ versanden
ver は、自動詞に他動的な意味を加える要素で、例えば、増える→増やすといった感じで意味を変化させる。
Sand は砂。この二つで、砂を堆積させる、砂が堆積して河口などが砂に埋まる(浅くなる)という意味になる。そこから派生して、交際などが次第に途絶えるという場合にも用いられるらしい。
人との付き合いが次第に遠ざかり疎遠になる過程が、うららかに流れていた小川に砂岩が積み重なり流れなくなる光景と重なる。身近な人間関係はどんな流れをしているだろうかと、ふとその小川を眺めそうになる。
他の文化圏では別な言い表し方があるのか気になってくる。
名詞の Versand には(商品などの)発送、特に多数の物を各地に送り届ける、という意味がある。はるか遠い昔に、手漕ぎの小舟が砂浜にたどり着き、荷揚げするところからついたのだろうか、と想像する。けれど、実際は versenden(大量発送する)という言葉からきているようだ。
◆ stoßen
この動詞には、すばやく突く・突き刺すという意味があり、auf(面に向かって)と合わせて、(鷲などが物を目がけて)急降下するという意味になる。
先ほどの auftauchen のときは水面に向かっていたので上に向かっていたけれど、今回は地面に向かっているので下に向かっている動きになるところもおもしろい。
一語に圧縮された風景の鮮やかさに驚き、心を動かされる理由には、母語である日本語とのつくりの違いがあると思う。
先日、長い熟成期間を経てようやく読めたある本に、そのヒントを見つけた。
孫引になってしまうけれど、重要な箇所があるので、そのまま引用したい。
複合動詞とは、動詞を二つ組み合わせたもので、現代のヨーロッパ諸語(英・独・仏・露語)などには見られない造語法だという(長嶋善郎「複合動詞の構造」。大修館書店『日本語講座④日本語の語彙と表現』所収)。むろん外国語にも、例えばドイツ語の熟語動詞のように、Kennen lernen(知り合いになる)といった式の複合語はある。しかし二つの動詞は最後まで切り離されたままで、形態としては『二語並列』である。
(中略)
「思い出す」は一語のように見え、われわれは誰もそう信じて疑わない。しかしこれは〈「思う」の連用形「思い」+「出す」〉という構造を持った複合動詞なのだ。つまり日本語の複合動詞は形態としては一語然として見える。ここが日本複合動詞の特長である。
井上ひさし『自家製 文章読本』(1987)新潮社 より
日本語の複合動詞を当たり前に浴び続け、口にしてきたからこそ、ドイツ語の凝縮された一語に心をつかまれるのではないか。
それらの一語も、細部を見ると、前綴り・語幹・語末変化のように枝葉へ分かれるけれど、それは動詞+動詞のような行為の連動ではなく、幹から枝葉へと、一本の木のような動きのある景色として脳内再生される。
ドイツ語に一語然とした複合動詞がないことと、まるで “Kopfkino(頭の中の映画館→脳内劇場)” のように情景が浮かぶ凝縮された一語が豊富にあることとは無関係ではないのではないか。
その答えはまだつかめないけれど、私はこういう瞬間を求めている、という思いがふっと胸に浮かんだ。
文章を読む際、毎回こう立ち止まって脳内劇場を繰り広げていては大変で、細部に目がいきすぎて全体が見えていないということになるかもしれない。
それでも、一本の木ごとにその背後でユニークな森がそよいでいるような言語の楽しみ方を続けていたい。
これからも、日本語で肌に馴染んできた感覚に気づきながら、あたらしい感覚を求めて、頁をめくり続けていきたいと思う。
2022.07.05 u
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