4. 形無しで母語と向き合う。
- u
- 2022年6月8日
- 読了時間: 4分
更新日:2月15日
*Empat(ウンパッ)=インドネシア語で「4」

前回 「3. 私をめぐる果てしない旅」で書いた一人称についての話に関連して、しっくりくる表現を未だ見つけられず、言葉に詰まる場面がほかにもある。
例えば、知人の身内に不幸があったとき、かける言葉を見失ってしまう。
「この度は、ご愁傷様でした」という言葉は、自分には形式の色が強すぎて、まだうまく言うことができない。
別の方法で、なんとか相手への気持ちを伝えたいと思うけれど、なかなか見つけられずに目線だけを送る。肩に手を添える。
「ご愁傷様」という言葉に直接、会話の中で出会ったことは、これまでの人生でも数えるほどしかない。
むしろ、物語などで間接的に、皮肉や同情をこめて使われる例のほうが馴染み深く、悲劇のヒロインをいじめる登場人物が、捨て台詞のように投げつける印象もある。
ここまで場面が限定されたものではなくても、元々、定型文と言われるような表現を口にすることに心のどこかで抵抗を感じてきた。
定型文は、利便性に富んでいる。伝わりやすく、選びやすい。
その反面、もっと厳密に、今自分の中で起こっていることを言語化したい、という思いがずっと渦巻いている。そのことが、私を言語の境界の外へ、狭間へと誘うのだろう。
そんな風に言葉選びを意識するようになったのは、高校生くらいからだと思う。
時代の違う小説を開いては、辞書を引きながら遅々として読む。
身体では知っていた感覚を、こんな風に言葉にできるのか、と目から鱗が落ちる。
外国語で定型文や常套句を用いることには、不思議と日本語のような抵抗を感じない。
それは、既にその定型文が、自分にとって新しく取り入れたものであり、これまで持っていなかった伝達手段だからだろう。
ほかの理由のひとつには、話している相手が、自分と違う文化圏で生きてきた人だということもあると思う。そこでは、お互い違う先入観を持ち寄っている。定型文を用いることで、育ってきた文化や環境が違っても、いわんとすることを誤解なく共有しやすい。
お互いが違うことを前提にすると、頭の中で想像が働きすぎない。
この場面でこの表現だと、誤解されてしまうのでは?と思うことはあっても、定型文だから、気持ちが伝わらないのでは?と思うことは不思議とない。
ドイツに滞在していたとき、スーパーでの買い物や、街で出会った人たちとの会話では、特別な話をしなくても、挨拶を交わしただけでも心が動かされた。
伝わる、ということの純粋な喜び。
自分が生きてきた人間関係の積み重ね、染み付いた社会規範に左右されずに、ただ一人の人間として、人と関われたことによる恩恵も大きい。
滞在中には、一度思いつきで映画館に入って、偶然そのとき上映していたものを観たりもした。
字幕なしのドイツ語音声のみだったので、聞き取れなかったり、意味がつかめなかったりした部分が山ほどあった。
そのせいか、表情の微妙な変化や、断片的に聞こえてきたフレーズから推測で補われる登場人物たちのやりとり、これまでの映画鑑賞にはない運動が自分の中に生まれた。
ちょっとした目線の合図、見落としてしまいそうな顔のこわばりや声のトーンの変化、カメラワークや立ち位置に見える意図、そういうものが、今まで以上に目に留まった。
DVDが発売されてから答え合わせをしてみると、思い違いや、言葉は分からなくても理解できていた部分があり、面白かった。何度も聞き返しているうちに、そんな言い回しを使っていたのか、そんな表現があるのかという発見もあり、寄り道をしているうちに、かごは集めた木の実でいっぱいになっている。
言語を学ぶことは、私にとって文字としての意味から解放されることだ。
どこまでいっても意味から離れられないからこそ、その違いに驚かされ、固定化された価値観を打ち砕かれ、これまで見てきた型を外すことができる。文字は音と体温を帯び、生きていることばとして私の中に育つ。
川﨑智子『整体覚書 道順』土曜社(2021)「型の工夫と形無しから見えること」の頁に、
日本では型を模倣できる能力を上手と呼ぶ。関係性から体を自発的に整えていく整体は全く形無しである。型を模倣する世界の外にある調和とは何か。これを見つけていく。(P.39)
という言葉がある。
フォーム(型)からの解放、体との関わりを通してひとつひとつの所作を創造していくこと。
そのことが、私が言語探求に求めているものにとても近いと感じた。
「上手」と「下手」の外の世界。
そこにある自分と世界との調和を感じてみたい。
そのために、赤子の頃から日本語を覚えてきたのと同じ分、それよりもっと時間をかけて、遠回りしながら素への道をたどっているのかもしれない。
2022.06.08 u
Comments