21. レイドバックでくつろいだことば。
- u
- 2023年1月6日
- 読了時間: 4分
更新日:2月15日
*Dua puluh satu(ドゥア プルゥ サトゥ)=インドネシア語で「21」

言語を学び始めるきっかけは、いつも特別で重要なものばかりではない。
私の学校にはインドネシアからの留学生が多く、キャンパスを歩いていて耳に入ってくる新鮮な響き、出会った人々とのささやかな会話だけで、興味をもつには十分だった。
私や、ほかの日本人学生には英語で話し、同郷の学生同士ではインドネシア語で話す。その切り替えはとても自然に行われて、意味を伴う言葉と、意味や音節を認識できない音の壁をはっきりと感じる。これまで触れた外国語とも全く違う、ひとつの言語。
インドネシア語には “kira-kira” という言葉があり、近似の、だいたいの、ラフに(roughly)などの意味になるということを初回の授業で習った。キラキラ、という日本語で馴染みのある音、少し下を巻いた “r”。 kira には推測に近い意味があって、memperkirakan や perkirakan のように接頭辞をつけて、見積もる、予測するという意味にもなる。
日常の会話において厳密な文法的正しさはそれほど、というよりほとんど求められず、文法規則もおどろくほどシンプルに感じた。なかでも、現在形・過去形・未来形などの時制変化が強くない点は主な特徴としてよく話される。
現在形の基本文に kemarin(昨日)や tadi(すこし前に)、sudah(すでに~し終えた)などを加えれば過去形として理解され、besok(明日)、akan(~するだろう)などを加えれば未来形になる。ゲルマン系、ラテン系言語で毎回動詞の変化表と格闘してきた身からすると、このシンプルさがとても気持ちいい。
伝わるということに重きを置かれた言葉の構造。
英語でいうbe動詞や、名詞を修飾するときの助詞も不要なので、”Saya orang Jepang(わたし・日本人)” といえば、わたしは日本人ですという完結した意味へ、”Buku saya(本・わたし)” といえば、わたしの本という意味になる。イタリア語やフランス語ならここで il mio libro、mon livreのように単語(本)の性別によって修飾語の形が変化し、ドイツ語やロシア語なら性に加えて文中の格によっても語形変化する。そうした思考プロセスを挟まずアウトプットできる Bahasa(インドネシア語)のシンプルで明快な構造は、ゲームのようでどんどん学び進めたくなる。
調査方法や方言と言語の区別などによって諸説あるけれど、もともと各島々、地域ごとに700をこえる言語が話されているとされるインドネシアで、 Bahasa が現在に近い形で、交易等のため共通語として話され始めたのは100年ほど前だと知ると、複雑なルールや、正しさを偏重しない点にも納得がいく。
“インドネシア語” と呼んでいるけれど、本来は Bahasa(言語)、Bahasa Indonesia と呼ぶことは少し前まで馴染みがなかった。

Bahasa で特に心を動かされるのは、kira-kira のように、単語を2つ重ねる表現が豊富な点だ。もともとある単語の意味そのものから、2回重ねることで違う意味を成すところが愉快で楽しい。
◆hati-hati(ハティハティ)
hati にはもともと心臓、肝臓、(食用)レバーの意味があり、ハティハティで、気をつける、用心・警戒するという意味になる。「それが肝だ(=重要だ)」という表現が日本語にもあるけれど、人は大事なことを肝臓と重ねるものなのだろうか。
“Ini kopi Bu. Hati-hati, masih panas.”
( コーヒーどうぞ。まだ熱いので気をつけて)
“Sampai jumpa lagi”
(またね)
“Iya, hati-hati di jalan, ya”
(道中気をつけて=またね)
そういえば、焼鳥屋に行くとメニューにあるレバー(鳥の肝臓)は、英語では “liver(リヴァー)” だ。hati-hati を調べていて改めて思った。まぎれもなく live(生きる) という行為と近いところに由来がある。
「道中」に含まれる “jalan” という言葉には、道、線路、過程、旅などの意味があり、2回重ねて jalan-jalan(ジャランジャラン)、歩く、ぶらぶら散策するという意味になる。
ことばの響きから、肩の力がいいかんじに抜けていて、足取りは軽く、わたしもそんな風に歩いてみたいという思いが湧いてくる。
オランウータンはマレー・インドネシア語で “orang(人)+ hutan(森の、木の)” という意味だ。森のひと。腕を大きく振って木々のあいだを jalan-jalan 歩く、そんなイメージが脳内で重なる。
◆pagi-pagi(パギパギ)
pagi は朝、はやい(時間帯)という意味で、パギパギは早朝のこと。
朝早く目が覚めて、だれもいない散歩道を行きながらちいさな声でパギパギと口にしてみる。
◆apa-apa(アパアパ)
apa は「何?」と質問するときの疑問詞で、ほかの語と組み合わせて様々な意味を成す。アパアパで「何も(ない)」「何か(あるもの)」、英語でいうanythingやsomethingのようになる。
“連絡がおそくなってごめんね” と友達にメッセージを送ったら、“Tidak apa apa, santai saja(問題ないよ、ただ リラックスして → 気を楽に)” と返事があった。
“santai” には、心配事なくのんびりと(carefree)、くつろいで(relaxed)いるさま、つきあいやすい人柄(easy-going)や、背中を壁や背もたれに預けたように、のんびりくつろいだ(laid-back)という意味があると知る。
saja は単に、~だけという意味で、日常会話でよく触れる単語だ。
“調子どう?” と聞かれれば、“Baik-baik saja(ただ良い = 問題ない)” と答える。
会話全体のなかに、神経の糸がほどよくゆるんだくつろぎを感じる。
Bahasaを声に出すと全身に張り詰めた緊張感が自然とほどけるように、心はいつまでも、ジャランジャランとあてもなくさまよっていたい。
2023.01.06 u
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