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5. 椅子とりゲームを終えて、芝生に寝っ転がる。

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  • 2022年6月20日
  • 読了時間: 6分

更新日:2月15日

Cinq(サンク)=フランス語で「5」



ここ半年くらい、ほとんどひとり部屋で一日を過ごしていると、不思議なくらい、過去のことやここでない場所での出来事を鮮明に思い出す。


なかでも、学生時代に過ごした異国での日々は何ものにも代えがたい記憶であり、今の自分から一番遠い自分の経験としてほとんど夢想のように甦る。もはや、その景色は記憶のなかで変形してしまっていて、実際のものとはかけ離れているようにさえ思う。それくらい時は過ぎ、自分を取り巻く状況は変わってしまった。



その日々は、初めて肌で感じた、自分の椅子を失わないで済む時間だったかもしれない。


これを書いている今も、これまでも、私はどこにいても自分が座れる椅子を見出せないでいる。


初めて行く場所、初対面の人たちとの関わりに限らず、一人一組ずつ机と椅子が与えられた教室や、一員として役割を与えられた集団であっても同じことだった。


いつしか、一人分の椅子はただ存在しているだけでは手に入らないもののように思えてきた。与えられた椅子に気づけなかったこともあるだろう。



椅子といえば、中原中也のある詩のこんな一節が思い出される。


  港の市の秋の日は、


  大人しい発狂。


  私はその日人生に、


  椅子を失くした。


    (「港市の秋」より)





少しの時を過ごした異国の地では、生まれて初めてと言っていいほど、“自分がこの場所、ここにいる人たちにフィットしていないと感じる苦痛”をもたずに済んだ。


それは、自分が異邦人で、違って当たり前な存在だからということもあるし、移民や留学生の多いあらゆる人や物が行き交う街で、みなそれぞれのルーツを外見上でも、内面にも抱えているからでもあっただろう。


こういう場面ではこういう振る舞いをするのが普通


という定規をあてられることもなく、自分自身が測ることもなく、お互いゼロからのスタートで人間関係を築けることが何より心地よかった。もちろんみんな定規は持っているのだけれど、その定規はみんな規格が違っていて、単位の違いから認識する必要がある。



しかしそれ以上に、日常のあらゆる場面で、これまでの人生で踏み固められた地面を掘り返し、ほぐされたような感覚になることがあった。




留学先の大学では、講義棟から食堂のある建物まで中庭を抜けていくのだけれど、昼前になると中庭の芝生には多くの学生たちが集い、各々の時間を過ごしていた。


友人たちと談笑する声、一人で本を読む姿。


印象深く目にとまったのは、芝生に直に腰かけたり、寝転んだりしている人たちが数えきれないほどいたことだった。木陰を好む人もいれば、中庭のど真ん中を選ぶ人もいる。点々とまだらに、みな思い思いの場所へ寝そべっている。



学校だからというわけではなく、郊外のちょっとした木陰や公園でも、大の大人が心地よさそうに寝転び、ノースリーブや短パンで日光浴をしている憩いの姿を見ることができた。



講義を受けていた教室の窓からは、ちょうど正面に噴水のある水浴び場が見えて、そこには、小さなこどもとその家族らしき人たちに混ざって、学生らしい人たちや幅広い年齢層の大人たちも足を浸していた。




カフェやレストラン、Brauhaus には必ずといっていいほどテラス席があり、夏の時期には見事にほとんどの客が外を選ぶ。


会計は席で行うことが多いけれど、あるときお手洗いを借りに店内に入ったとき、あまりにも無人だったので閉店中と錯覚したほどテラスの賑わいとは対照的だった。




ある日には、知人の紹介で知り合った方々に、寮の近くの小山へ連れて行ってもらった。私ともう一人の学生以外はみな働いていて、その日も17時頃まで仕事だったらしい。



のんびり歩けば片道小一時間ほど歩く道だったので、仕事の後で疲れていないか尋ねると


一日中パソコンと向き合っていたら、自然を浴びないとやってられないよ


と、やわらかい表情で話してくれた。


その人は、次の週末にはスイスまで足をのばし、アルプス山脈の一山に登るのだと目を細めて話してくれた。


男女5人のメンバーはそれぞれ同僚や友人であるらしく、行きの道中に生っていた木の実を摘んでかじってみて「まだ酸っぱい」と味を確かめたり、頂上近くのひらけた平地に着くと、裸足になって岩に登ったりして、とても気持ちのいい人たちだった。



それぞれが、今したいと思ったことをする。


自分にとって居心地のいい姿勢でいる。居たいと思う場所に居る。


それを、互いにみとめあう。楕円でゆるやかな輪を描いている。


そういう空気感の中にいるだけで、ただ座っているだけなのに心は解きほぐされていた。




きっと、そのときのメンバーは特別自然を好む気持ちが強かったのだろうと思ったけれど、街中であっても、自然とともに時間を過ごす人たちを見かけることはあった。



授業に度々おやつを持ち込んでは配ってくれた語学コースの先生が、一度は行ってみると良いと勧めてくれた地元の川があり、授業の帰り道にひとり途中下車して、そばを歩いて帰った日。


川にかかった橋には姉妹都市の旗がいくつか掲げられており、私の生まれ育った町の市章も夏空にはためいていた。


川べりには土手に腰かける人、散歩している人のほかに、木陰で一人本を読んでいる若い人がいた。その本の表紙は手に馴染んでいて、きっと普段から持ち歩いてこうして開いたり閉じたりしているのだろうと思った。



そんな風に、自分ひとりの時間を居たい場所で、居たいように過ごせることに胸を打たれた。


その人の近くでは、そよぐ草木と水浴びをする鴨の親子だけが音をたてていた。




時は過ぎ、帰国した翌年に、ドイツでもお世話になった人が交換留学でやってきた。


彼女は自然や生きものを愛する人で、それらについて自分がどう思うか、何をするかを考えている人という印象があった。


その人と緑のある公園に出かけたとき、何気なく話しながら歩いていると、彼女はふいに見つけた人差し指ほどもある芋虫を躊躇わず掌にのせた。私には毛虫に見えて驚いたけれど、芋虫は掌の上でじっとしていた。


しばし観察してそっと元の場所に戻す。また少し歩く。


するとそこに、二人いても手が回らないほど幅のある、立派な風格の木が現れた。


登れるかな?という話になると、身軽なその人はさっそく足をかけ、根本が盛り上がって小高い足場になっているところへ、いとも簡単に上ってみせた。


彼女と過ごす時間は、ふとした瞬間にあの夏の快い時間を思い出させてくれた。




思い出の中で私が「自由」を感じた場面は、決して、ルールや秩序から解放されているわけではない。


決められたことにちゃんと縛られる代わりに、縛られない部分を確保する解放なのだと思う。


ルールで決めないと決めたなら、それは各自が選ぶものなのだ。それを互いにみとめあう。



どこであれ、限られた居場所を勝ち取る競争の場では熾烈な争いが繰り広げられるだろうけれど、音楽が鳴り止んでまで椅子とりゲームを続ける必要はどこにもない。



自分がどう見られるか、より先に、自分が今何をするか、したいのかが見える。


だからこそ、帰国時のトラブルで人混みの中私を助けてくれたあの青年の行動があったのではないか。宗教や信条、言葉にならない複雑な背景があるにせよ、ふとそんなことを思う。


自分の座る場所を囲い込んだり、必要以上に椅子を奪い合うことをやめるということ。


みんな各々お気に入りの椅子を持ち寄って、なんなら地べたに寝っ転がって。


そんな時間を、まずはひとりからでも作っていけたらと思う。



2022.06.20  u  

 
 
 

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