53. 靴擦れの話をする日。
- u
- 5月27日
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"Wo drückt denn der Schuh? (靴のどこがきついのか/当たって痛いのか)" というドイツ語の表現は、「困っているところはどこだい?」という意味で用いられる口語的な慣用句だ。
ちょっとお話できますか?と相談を持ちかけられたときや、集団内で目下の問題点を共有したいとき。こうした表現を知っていることで、「どんな問題を抱えているのか?」と言うよりも、もっとお互いの固有の感覚を入口として、寛いで話せる一助になる。
人になにかを相談することがそれほど得意ではない人間にとって、「お話できますか?」とだれかに声をかけること自体が負担になることがある。
また、複数人で協働する際に、「課題や問題点を話し合おう」と言い出すことで、頭が固くなってむしろアイデアや本音が出てきづらくなることもある。
そんなとき、"それぞれの靴のどこがきついのか" を考えてみると、自分がどう感じているのか、わざわざ話すほどでもなかったけど、言われてみればちょっとひっかかるな、嫌だな、困るな、ということが思い浮かぶかもしれない。
靴が合わなくて足が痛いとき、他者にそのことを伝えるかどうかは人によるだろう。少しの間だし、我慢すればいいか、と黙っていることもできるし、その場で状況を伝えて歩く速度を落としたり、近くで歩きやすい靴に履き替えたりすることもできる。
以前「8. 履きなれた靴はどこにある?( https://x.gd/aYOvi )」で書いた「履きならす」との出会いを思い出す。
靴は、ある種の環境要因だ。足に合う形を選んだり、時間をかけて履きならしたりすることで、履いていることを意識しないくらい馴化することもある。一方で、痛みをもたらし、歩くたびに苦痛を感じさせることもある。
こうした環境に対する問題意識の大小は人によってかなり違っていて、ある人にとってはなんでもないようなことが、べつの人にとっては恐ろしく、大丈夫だと思えないことだったりする。
痛みや傷は、どこまでいっても自分だけのもので、痛みほど鋭利ではない "キツさ"、圧迫感、窮屈さや違和感は、より一層他者と分かち合う機会を持ちづらい気がする。
環境が履きならされるまで待つのか、居心地のよさを探って環境に働きかけるのか。痛みを共有することはできなくても、話すことで、痛みを開いておくことはできるかもしれない。
慣用句として広く浸透している言葉。第一言語として話す人にとっては、本来の字義は薄れ、意識されなくなるものでも、学ぶ者にとっては、野の花に心動かされるように立ち止まりたくなる、味わい深いものだ。
どんな言葉も知っていくのは楽しい。その中でも、Wo drückt der Schuh? のような、心にまっすぐ届く表現との出会いは、考え方や人とのかかわり方、自分自身を知らず知らずのうちに変えていくだろう。
ことばを知ること。
生きることで失ってきたものを、取り戻すこと。
道はどこまでも続く。その景色は、歩き慣れた道にあってもなお、あたらしい。
2025.05.27 u





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