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50. 掌上のネビュロシティ。

  • u
  • 3月11日
  • 読了時間: 4分

更新日:3月30日





„Eine Seilbahn führte uns, die wir unsere Skier festhielten, aus dunklem Tunnel ins Freie; zwischen gleissenden Schneefeldern, unter blauem Himmel schwebten wir aufwärts.“ (Annemarie Schwarzenbach „Verklärtes Europa“ aus „Bei diesem Regen“(1996)Lenos Verlag, S.36)

 

「暗いトンネルから外へ、スキー板を抱えた私たちをケーブルカーが運ぶ。まばゆい雪原と青い空の狭間を、宙吊りになって上っていった。」(拙訳)

 

アンネマリー・シュヴァルツェンバッハ『雨に打たれて』を読んでいて、"ins Freie(外へ)" という一語に目がとまる。

 

ドイツ語の frei(フライ)は、自由なさま。拘束されておらず、場所や時間が空いている状態。さらには、費用や、義務や責任などを免れていることを表す。遮るものがなく覆いのない、むき出しのという意味もある。

 

 

本に出てきた das Freie は「屋外、野外」の意味で、frei が文字として重なって見えるこの一語を目で追うとき、真っ暗な景色からぱっとひらけた視界の感覚、まぶしさのようなものが身体に飛び込んできて驚いた。これは、「外へ」という言い方では生まれたことのない体験だった。

 

ひらく言葉だ、と思った。

 

frei が含まれる言葉はいろいろある。das Freibad は無料のプールや自由なプールではなく、天井や庇のない屋外プールのことだ。つかの間の夏の陽光を存分に浴びることができるという点では、自然を愛する人々にとって自由なプールなのかもしれない。

 

 

ドイツ語で、「外へ」と言うときには、フォーマルで文学的な ins Freie よりも hinaus や heraus を用いる場面の方が多いと感じる。hin は向こうへ、her はこちらへ、という方向づけの言葉で、話し手がどこを起点に話すかによって使い分けられる。

 

ドイツ語では、空間的・概念的・感情的ニュアンスが厳密に言葉で書き分けられていることが多い。誰が何に対して行う、というような、動作主と目的語の特定も省略せず、言葉で明確に示すことが多いと感じる。特に物語を読んでいるときには、こうした言語的な性格が、一場面を思い描き、そこに立つためのナビゲートをしてくれる。

 

 

こうしてドイツ語で物語を読み進めていく行為は、まさに未開の森に裸足で足を踏み入れていくような感覚。魂だけが、部屋のベッドに横たわる身体から抜け出し、体験したことのない世界を、手探りのなか、肌で感じる。

 

開いたページには初めて見る言葉も多く散らばり、勝手な連想や先入観が挟み込まれない。心が囚われるようなしがらみから解放され、いい意味で、放り出される感じがする。

 

 


ins Freie はひらく言葉だと思うと同時に、その反対のとじる言葉も知っていることに気づいた。


例えば、der Raum だ。部屋、と訳されることが多いこの言葉は、英語でいう space の意味ももっている。der Weltraum(宇宙) という言葉は、Welt(世界)+Raum(空間)という2つの言葉でできている。際限なく拡張し続ける無限空間に名前をつけたことで、ひとまとまりの対象として認識できるようになっている。これが、ことばのもつとじる作用だと思う。


Sprachraum(言語圏) や Spielraum(余地・あそび) という言葉をみても、境界線がなく、本来捉えどころのないものが、輪郭を与えられて認識可能になる感じがある。




「『外』という日本語には楽しさが感じられない」と、複数の文化圏での「外」の捉え方について書かれているのを多和田葉子『言葉と歩く日記』(2013) で読み、親しみを感じたのを思い出す。


ひょっとしたら、それは私が、日本語の「外」にはとじる作用を強く感じるからなのかもしれない。自分のなかにある閉鎖的島国の雰囲気をどうしても拭いきれない。


ドイツ語の aufgeschlossen や英語の open-minded のような、オープンな人という言い方は、私はまだ日本語に翻訳しきれない。aufgeschlossen のように、鍵を解き、開け放たれた扉のような心、open-minded のように、異なるものをみとめ、外にひらかれた心根を一語で表す日本語を、まだ見つけていない。



「外出」には、rausgehen や hang out や take someone out のような興や楽しさがない。「おでかけ」というと少し楽しさが増すけれど、特別感が出すぎてしまって、いつもの気軽さに欠ける。


芝生に寝っ転がりにいこう、とか、ちょっと砂浜に座りにいこう、とか、そういう外出がもっとありふれたものになればいいのにと思う。






ことばは宇宙だ。


とじたり、ひらいたりしている。その収縮と弛緩のなかで、星の数ほどの有機的な出会いが生まれ、明滅する。


星を掴むことはできないのに、手を伸ばすことをやめられない。そうして、これからもきっと歩き続けるのだと思う。







2025.03.11  u  

 
 
 

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