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48. 抜け殻に宿るもの。

  • u
  • 1月15日
  • 読了時間: 5分

更新日:2月15日






「過去」とは、過ぎ去りしもののことだ。未来は未だ来ぬもの。

そんな自明なことでも、正面から意識することは少ない。他言語にふれ、外からの目線で言葉を見つめ直すとき、その成り立ちや言葉の表す意味に改めて気づくことが多い。



過去は、ドイツ語でも "Vergangenheit(過ぎ去りしもの)" といい、そこには vergehen(過ぎ去る・消え去る)という言葉が内包されている。


同じく時に関するもので、直訳すると "過ぎ去っていく性質" という意味の Vergänglichkeit は、はかなさ、移ろいやすさ、つかの間のもの、無常を意味する。



はかない、という言葉を一言で説明するのは難しい。けれど、Vergänglichkeit がその字で体現するような、時を待たず、今まさに過ぎ去っていく無常のことを思うと、刻一刻と表情を変える乾いた冬空や、いつも誰にも別れを告げずどこかへ行ってしまう朝露、生まれては去って行く私たちのことを連想して、少しだけその意味を身近に感じることができる。



日本語で空蝉(うつせみ)とは、この世に身を置くうつしおみのこと。転じて、蝉の抜け殻のこと。たよりなくはかないこの世を表す、言語特有の表現だ。





ドイツ語の kurzweilig は、はかなさ同様に独特な表現で、翻訳することが難しい言葉だと思う。


kurz は時間的・物理的に短いことを意味し、weilig は Weile(しばらくの間、短い時間)が形容詞になったものだ。けれど、短時間的な、というそのままの意味ではない。



ここで対義語の langweilig(長時間的な→退屈な) を並べると、視界が一気に明るく開かれる。kurzweiligは、退屈の反対なのだ。興味をそそられ、熱中し、没頭し、楽しんでいること。映画や小説が "面白い" という際などに用いられる。"unterhaltsam(楽しくて、心地よくあっという間に時が過ぎる)" という言葉で言い換えられることも多い。



好奇心を掻き立てられるような内容的な面白さとは少し違って、その時間をどのように過ごすかに焦点が合っている。気づけば日が暮れるまで没頭していた、というような熱中や、エンターテインメント体験としての面白さの側面が強く滲み出ている言葉だと思う。たしかに、退屈の反対側には、「刺激的」があるように感じる。



「世の中に退屈なものが存在するのではなく、つまらないと感じている自分がいるだけ。面白いかどうかは、自分の感受性次第」ということばを耳にすることがある。


「この作品は面白い」「この作品は、時を早く感じさせる」


「繰り返しの毎日はつまらない」「繰り返しの毎日は、時を長く感じさせる」



面白いとかつまらない、退屈かそうでないかを見ていた時とべつの望遠鏡を覗いてみれば、そこには世界がただ広がっていて、人の数だけ違った時の過ぎ方があるように見えてくる。




「退屈」を langweilig(時がなかなか過ぎない状態)、その反対を kurzweilig(時がはやく過ぎる状態)として表すドイツ語の言語感覚は、この世界を見るための新しい眼を与えてくれた。"短命" を意味する schnelllebig(はやく過ぎる生の)という言葉も、kurzlebig(短い生の) とは違った印象をもつ。



脈拍は寿命と相関関係にある、鼓動のはやい生き物ほど短命であるという説があるように、たとえ、誰もが定規で測ったように同じ長さの生を受けるとしても、きっとその一生は、べつの時を刻んでいくだろうという気がする。



kurzweilig について分かってきたところで、そもそも、退屈の対義語とは何なのだろう。その答えを導き出すためには、退屈の意味について知る必要がある。


「退屈」という言葉は、仏教用語に由来するらしい。


修行苦に屈して仏道を求める心が退くこと、そこから転じて、所在なく時間を持て余すこと、くたびれて嫌気がさすことを意味するようになった。本来の意味に沿って考えると、退屈の反対は「求道」なのかもしれない。


己の信じる道を追い求めること。





少し前までは、時がもっと早く過ぎてほしいと思っていた。今日、明日、一生さえも、気づけば終わっていたと思えるほど今に夢中でいられたらどんなにいいだろうかと。こぼれ落ちる時の砂を惜しむほど一瞬を想えたなら。




けれど、いつもより歩みの遅い時間の心地よさも知っている。


子どもの頃、夏に外泊していつもとは違う場所で目覚めたあの日。まだ日も昇る前、静まり返った空気、夜と朝の狭間。


野鳥の息遣いや、木々のざわめきだけを側に感じる。滲むように明るくなっていく視界、ゆっくりと世界が目覚めていくのを感じながら、いつもと違う匂いのする布団に包まれて少し落ち着かない。


もう1日が始まって随分経った感覚があるのに、時計の針はまだ正午を回っていない。今日は何にもしなくていい、何をして過ごそうか。結局なんにも大したことはせず、また静まりゆく夜に沈んでいく。




ドイツ語に、Zeitdruck(時間的圧力・プレッシャー)という言葉がある。体内時計が刻む固有の時間とは、相容れない時間を過ごしているときに感じるものだと思う。共通時間で進んでいく社会生活において、避けては通れないものだ。





生き物は、自分だけの秒針を手に生を歩んでいる。紙や布、ことばさえも同様に、各々の時を刻んでいる。


その生のはやさに符号する時の歩みをもつものと出会えたとき、人はつかのまの休息を得るのではないだろうか。あの夏の日に私が感じたのは、私という生き物が刻む時のはやさだったのかもしれない。




人は、忘れたくないと感じたときに、絵や、写真や、言葉を遺す。残された印象や、風景や想いは、時間性を失ってそこにとどまり始める。不滅ではない、と私は思う。死してなお、魂を生かそうとするものに見いだされ、再び息を吹き返す。



今という時間を刻み続ける生なしに、残り続けるもの。


指の腹でそっとその輪郭をなぞるたびに、私は失っていた時間を取り戻すのだ。







2025.01.15  u  

 
 
 

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