47. 蔓性のレーベンスアート。
- u
- 2024年12月30日
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更新日:3月25日

植物を観察していると、感心して、思わず息を呑む瞬間がある。
その最たるものは、植物の姿が、生きてきた道筋を体現していることだ。例えば、枯れた枝の痕は、黒っぽい歪な凹凸となって、そこにかつて枝があったことを遺している。茎はうねりをもって成長の跡と過ぎ去った時間を残し、葉は光の方へ手を広げている。
植え替えの際には、その命を下支えする根が、想像よりも遥かに地中深く潜り、緻密に張り巡らされていることに驚かされる。水を求め、養分を得ようと広がっていった、膨大なネットワークにただただ圧倒されるばかりだ。
英語の "rambling" という言葉は、あてどない散策、とりとめのないおしゃべり、散漫な文章とあわせて、蔓(つる)性の(植物)を意味する。
なにを言っているやら判然としない、冗長なという半ば批判的な意味合いもあるようだけれど、私には、この言葉がただ好ましく感じられる。目的を忘れて気の向くままに枝葉を広げていく rambling な蔓性の思考は、時折強迫的に猛威を振るう自己実現欲求をものともせず追い越していく。
力の最大化、目的意識に根差した行動、説明可能な何者かになるべく奔走する自己。
静かに、目視できないほど緩慢に、けれど着実にそれらを抜き去って行く野生の蔓は、大地に縛られながらも踊るように軌道を変えていく。
とりとめのない考えという意味で、vagrant thoughts という表現もある。
vagrant は浮浪者・放浪者という意味。whimsical(気まぐれ)で capricious(移り気)な、家をもたない思考だ。フランス語の déraciné(根を脱した→根なし草・放浪者・デラシネ) にも似た、さまよう響きがある。気まぐれにすぐいなくなってしまいそうなこの気配は、「とりとめのない考え」という馴染み深い言葉からは得られない。
蔓性の植物は、climber や creeper と呼ばれることもある。
climb は山や木に「登る」という意味で、creep は「這う」こと、気づかれないよう音を立てずに対象へ近づくことを意味する。蔓は人の背丈よりも遥かに高い壁やフェンスをものともせず触手を伸ばし、音もなく、気づけば建物全体を飲み込むように覆い尽くし、住処にする。
植物の形状は、完成形のない芸術だ。生きてきた跡が形になる。初めからこの形になろうと思って育つサボテンはおらず、理想の色や形状を夢見る椿は存在しない。それなのに、その "ただ生きてそこにいる" という事実に、こんなにも胸を打たれるのはなぜだろう。
どんなに量産的に栽培され売り出されても、ひとつとして同じものがない。殊に、その生が終わりを迎えるとき、こんなにも違った旅路を歩んできたものかと感嘆するほど個々の生き様が顕わになる。
ひとりぽつんと立っていたばかりに、落雷に遭って燃え尽きた古木も、人間の都合で植えられてまた人間の都合で切り倒された木立も。その乾いた樹皮には、絶えず風雨に曝されてきた深い皺が刻まれ、残された切り株には、生きた年の数だけ年輪が重なって見える。
特段興味を抱かなければ、どれも同じ緑、同じような葉、似たような蕾に見えるだろう。
私たちも、そんなものかもしれない。
枝を取り払った木の幹のことを、英語で trunk という。車の荷物入れでお馴染みのトランクや、下着の一種であるトランクスも同じ語だ。木箱から荷物入れへ、胴体からそれを包む下着へという流れで派生したらしい。
直訳すると "幹化" ともいうべき truncate(トランケート)という動詞は、樹木の頭や枝端を切り詰めることから転じて、文章やスピーチを推敲し、短く仕上げることを表す。余分な要素を除き、予定された時間や目的達成のため、効果的な内容に仕上げることを意味する。
自分自身を truncate するとき、どの枝を切り、どの枝を残すのか、どの葉を取り、いつ、どの器に植え替えるのか、注意深く考えなければならない。
中身だけを大きく成長させることに気を取られていると、気づかぬ間に器は手狭になり、詰まった根には十分な空気や栄養が行き届かず、ただ腐っていく未来が待っている。ほかのことに気を取られて水をあげることを忘れ、そんな日々が続けば、ふと気づいたときには干からびた抜け殻だけがそこに残っているのを目にすることになるだろう。
決まった時間に同じ分だけ水をあげておけばいいだろうと高を括っていると、飽和して許容できなくなった水が根を腐らせ、古い枝葉からじわじわと枯れていく。
自分の生を活かすことは、今の自分の状態に気づき、何が充足し、不足しているのかを知り、それに合った働きをすることなのだろう。静かな植物たちは、黙ってそれを毎日やっている。誰にひけらかすこともなく、気づかれようと気づかれまいと関係なく、ただ黙々と続けているのだ。
造形美とは、均整が取れ、美を目標とし、美の枠からはみ出ないといった、飼いならされた了見だけで完成するものではなく、ただ生を求めて伸びていく彷徨、打算の余地のない野生の成せる業かもしれない、と思わされる。
どんなに困難な状況に置かれようとも、多くの植物はそこに根を張り続け、環境や個体という与えられた条件の中で今出せる答えを出していく。
Lebensart(レーベンスアート)は、ドイツ語で生の流儀。生活様式や、生き方を意味する。これは私の個人的な解釈でしかないけれど、似た意味の Lebensstil(英語では lifestyle )よりも、標語的でなく、おのずから存在し、内側に根拠をもつ内在的な響きを感じる。
数あるパターンの中から好んで選択するものというよりも、生きる上で身についてきた自分だけのやり方、生を活かす方法に、より似合う言葉だと勝手ながら思う。
蛇足を好み、あてのない散歩を繰り返す。他の人が気にも留めない枝葉を拾っては、大事そうに懐に抱えて帰り、家にある手頃な焼き物に土を入れて差しておき、根が出るのを待ちわびる。そんな風にして、自分だけの好きな時間を育てている人たち。そういう、人の心に芽生えるあたたかいものを、私は愛している。

2024.12.30 u
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