43. 重なる葉、生きた時間。
- u
- 2024年8月12日
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更新日:2月15日

英語の wade through pages of sth は、難しい本や労力を要する内容をなんとか読み進めること。wade とは、膝下まで浸かるくらいの水の中をざぶざぶ歩いていく動作のことで、水を含んだ衣服が重くまとわりつく感覚、前へ進もうとするほど素足に反発する水の壁を感じる言葉だ。
水と流れ、そこから情報の氾濫へと転じ、読むという孤独な性質のある行為を比喩的に絵的に表せるこの言葉を、気づけばそっと掌に掬っていた。
本を読む、言葉を目で追う。人はどんなふうにこの行為と関わっているのだろう。
言語の垣根をこえて「読む」という表現の違いについて探ってみたい。
ドイツ語で好きなのは、durchblättern (ぱらぱらとめくって読む)という動詞。 blättern は紙をめくるという動作を表し、das Blatt(葉)から成っている。葉は、文脈によって紙・ページという意味にもなるので、幾重にも束になったページをぱら、ぱら、めくる様子が目に浮かぶ。 durch は「(時間的・物理的範囲を)通して」という意味だ。
親戚関係の英語ではなんというのか辞書を引いてみて、英語にも leaf through という同じ意味合いの言い方があることを知る。
英語の文章読解などで、skimming(スキミング) と scanning(スキャニング) という言葉を目にすることがある。
前者は、トピックセンテンス、本文、結論などの文章作成の構造を利用して、重要な情報が含まれている行に集中しながら斜め読みをすること。 skim は「上澄みを掬いとること」で、skimmed milk(スキムミルク)の skimmed もそのひとつだ。
一方後者は、なんの情報を得たいのか予め焦点化したうえで読むというニュアンスがある。試験であれば、先に問題文を読み、該当する箇所を拾い読むこと。
液体に関する表現が読むことの比喩になっている例はほかにもある。
dip into といえば、エビフライをタルタルソースにさっとつけるように、部分的につまみ読みすること。元々は、液体になにかを短時間浸けること。日本語では、「ちょっと “かじった“ だけ」という隠喩があるけれど、ディップにもそれに近い意味があるとは知らなかった。
perusal(精読)という少し格式高い言葉があることも初めて知る。じっくり読む行為では、ほかにも pore over(熟読する)という熟語がある。pore(毛穴)と同じつづりのこの動詞は、偶然かもしれないけれど、毛穴をつぶさに見つめるような集中力を連想させる。
読み始めると止まらなくなる勢いをもつのは、binge-read(一気読みする)というカジュアルな言い方。binge は暴飲暴食のことで、binge-watch になれば、本ではなく映画や動画、映像をシリーズごと一気見するときなどにも用いられる。
ドイツ語にも近い表現があって、ein Buch verschlingen (本をがつがつ貪る→一気に読む)と言うことができる。
日本語の走り読みに近い言葉は、ドイツ語では überfliegen(上を飛ぶ)なのも興味深い。一見「飛ばし読み」の方が近い気がするけれど、飛ばすという動詞は既に、余分な部分を省略する、近道するという意味で認識が固まっていて、鳥が "飛ぶ" のとは結びつかない。その点、言語を隔てた fliegen は、まだ私のなかで、空を駆けるあの動きと密接に紐づいている。走るも飛ぶも、目線が紙面を、表面を、なぞってゆくさまを感じ取れる。
置き換えが難しい独特な言葉だと、ドイツ語の schmökern という動詞がある。 Der Schmöker は、気楽に読める娯楽本のことで、動詞になると、頭を抱えることなく寛いだ雰囲気のなかで行う、楽しみのためだけの読書を表せる。
煙草を片手にふかしながら読むことや、古くて高価でない本を煙草の着火に使っていた昔の習慣に由来するとされているそうだ。場合によっては、内容の薄い、とか刹那的というニュアンスも含まれそうな言葉だけれど、そういう読書の仕方が悪いとは微塵も思わない。読むに良いも悪いもあるはずはなく、ただそこには読む人と、それに伴走する本があるだけだと思う。
流し読み、拾い読み、飛ばし読み、走り読み、立ち読み、斜め読み、回し読み、熟読、読み耽る、一気読み。
日本語で個人的に馴染みのあるこれらの言葉は、流す+読むのような二つの動詞が組み合わさった複合動詞が中心で、なかなか見方を変えるほど新鮮に感じる表現とは出会えない。
一語一語の意味を噛みしめて読むことを「粒読み」と言ったり、内容をじっくり読み込むことを「味読」と言ったりできるのは、そのなかでもとりわけ光って見える表現だ。
心惹かれる本、特に珍しいを探し求めることを「猟書」と言うことも、動きのある表現だと思う。この一語で、書を追い求める狩人になれるとは、言葉はなんて自由なのだろう。
読書が好きですか、と問われれば、ふと言葉を見失う。
めくった頁の厚みは、私が生きた時間の重なりそのものだ、と思うことがある。
読むことを選んでいるようでいて、読むことのない生活を想像できない。
それは必ずしも物理的に頁をめくる行為のことではなく、ふとした瞬間に、心に吹く風のような回想も例外ではないだろう。
本はひとつの在処。
おもむろに開き、厚みを指でなぞれば、通り過ぎて行った無数の情景が、人々の声が、そこからどこにだって行ける窓から胸に迫ってくる。

2024.08.11 u





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