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36. 弦を打つ。

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  • 2024年2月27日
  • 読了時間: 4分

更新日:2月15日






イタリア語で調子はどうだいと訊かれたとき、”Sto benissimo, grazie” と答えるとにっこりされることが多い。


stoはstare(~な状態だ)の一人称形、benissimo は bene(よい)の絶対最上級で、すこぶる調子がいい、ということになる。



ベニッシモ、と口にすると、フォルティッシモ、ピアニッシモを思い出す。昔ピアノを習っていて、五線譜と五線譜のまんなかにちょこんとあるこれらの記号を見落とさないよう目を凝らしながら指を動かした。


絶対最上級という耳慣れない言葉の対義語には、相対最上級がある。イタリア語では、「この集まりのなかで一番…だ」というときと、「(比較対象なしに)とびきり…だ」というときに違う形式をとる。



人はこの “とびきり” の度合いをどのように習得するのだろう。


わたしがピアニッシモ(pp)とピアノ(p)の音の出し方を覚えたのは、ひたすら反復練習だったように思う。講師の先生と隣り合って座り、音の出し方を聴いては体現する。練習曲をCDで聴いて、その音に見合った鍵盤を打つ強さはどれくらいか、イメージして体を動かす。その繰り返しのなかで、なんとなく自分の中に目盛りが刻まれていった。




ピアノという名前は、イタリア語が元になっている。


けれど、イタリア語の会話で “piano” が聞こえてきたとき、その多くは楽器のピアノではなかった。


piano piano というと、あわてず、少しずつ自分のペースで。


al terzo piano といえば、建物の4階で。


avere un piano / (dei) piani は、一見「ピアノを持っている」のかと思うけれど、この文脈では、誰かと調整した予定があることを意味する。




piano という言葉はラテン語の planus に由来し、形状の平坦さ(平面的であること)、音の弱さ、速度の遅さの意味がある。

英語の plan(予定・計画) も同じラテン語に根を持ち、"平面に描画する" ことから "予定や計画" の意味を成すようになったのだそうだ。



楽器のピアノを言いたいときは、“pianoforte(ピアノフォルテ)” という。




ピアノはなぜピアノか。

なんでだろうね、という話になったことがある。


ドイツ語でピアノは “das Klavier(クラヴィーア)”。これまで認識していたものと全然違う、と初めて名前を知ったとき思った。



ピアノの正式名称は “clavicembalo col piano e forte” というらしい。強弱を伴ったチェンバロ。イタリア語では弱→強の順なのか。もしイタリア語でも強→弱の順だったなら、あの楽器をフォルテと呼んだ世界線があったのだろうか。



日本語では白黒写真というけれど、ドイツ語や英語では “Schwarz-weiß” “black-and-white” (黒白)だ。



クラヴィチェンバロと聞くと、ようやくクラヴィーアと道が通じた感じがした。その奥に目を凝らすと、根を共にする部分があるように見えてくる。




イタリア語は、料理の分野でも数多の興味深い表現がある。


パスタの茹で加減を表す “al dente(歯に接する→歯ごたえがある)”。直接的でいて余地があり、わたしの脳内では、もはやア・ル・デ・ン・テという概念として固有名詞化すらされている。



イタリア語の調理映像を見ていたとき、メレンゲを作るというときには “montare gli albumi a neve(卵の白身を雪の状態になるまでかき混ぜる)” という言い方ができると知る。


これも個人的で抽象的な質感・触感を言い表していて、わたしの思い浮かべる雪はだれかの思い浮かべる雪とは違うだろうと思う。それでも、“白身を雪にする” といえば、曇りのない一面の白、空気を含んだまま、掬い取れば形を保っている状態を想像できるのではないだろうか。



わたしはボウルの中の雪を静止画にして、静かに型へ流し込む。




そういえば、写真を撮るときにはイタリア語で “scattare una foto” という。このスキャッターレという動詞は、カメラのシャッターボタンをパチッと押すこと、銃の引き金を引くときにも使えるのだった。



写真や映像の撮影をshootingと表すことがあるけれど、この響きに感じる狙撃感を、イタリア語に親しむ人たちはスキャッターレにも感じるのだろうか。






その土地に馴染んだ表現を知る。


言葉と歩いてきた道がときどき同じ丘につながって、


振り返ると、一本の道のほかは薄闇に消えている。


残るのは、土を踏みしめる足蹠の感覚だけ。


また歩き出すには、それだけで十分だ。









2024.02.27  u  

 
 
 

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