35. フリーホイーリング、回る車輪。
- u
- 2023年12月21日
- 読了時間: 4分
更新日:2月15日

牧場の風景、冬枯れの木々と灰色の空。雲間から、ときどき気まぐれに薄く光が覗く。
数頭の乳牛と羊をカメラが捉える。同じ木製の柵の中で、互いに適切な距離を保ちながら過ごしている生き物たち。餌箱に集まっている牛たちや足元に散らばる牧草を食む羊の後ろで、木の側で背中を丸めたり、膝を丸めうつ伏せになったりして眠っている羊たちが目に留まる。
その表情は、なんともいえず穏やかで、思わず映像をとめてしばし見つめてしまう。
人が癒しを感じる瞬間はさまざまだろう。
わたしは、自分以外の存在が、ありのままで存在しているさまに癒しを感じる。
必然的に、動植物や自然風景に心を動かされることが多い。
部屋の窓際に置いた植物は、茎の一本まで己の生きる方向へと伸びている。世界に両手をひろげるような姿勢で。
茎の合間をぬって根を昨日よりわずかに伸ばし、ほかの葉の陰に隠れながらも光の当たるところを見つけ、気づけば形を変えている。
茎に触れると、ぴんと張った力がみなぎっているように芯がある。顔を近づければ青い匂いが鼻をかすめる。
ありのままであることは、他人のためでも、自分のためでもない生を生きることだと思う。ときにその両方であり、また、そのどちらでもない。生きていることが結果的に他の存在にとって良い影響を及ぼすことがあったとしても、それは願ったことでも目指したことでもない。
その一方で、ありのままであることは、生きるために環境という条件に徹底的に順応することでもあると、生き物を見ていて思う。
宇宙空間に浮かぶ星は、無数のガスと塵のなかで引力の強い場所が核となり、周囲の物質を集めながら収縮して形成される。その過程で、より引力の強い核に吸い寄せられ溶けていく星たちがいる。
生きるために、環境という条件に順応すること。社会では、環境を構成する大きな要素は人だ。
周囲の引力に呑み込まれず、自分の中心にある引力でなにかをつかみ、進んでいく人のことばや表現に出会うと胸が熱くなる。ああ、わたしが知らないうちにもずっと、ここで光っていたんだ、と思う。
"a free-wheeling spirit" という言葉がある。自由奔放で型にとらわれず、慣習や規則に縛られない気質のことだ。wheel は車輪、動名詞形の wheeling は車輪が回るさまのこと。あわせて、鳥や飛行機が弧を描くように宙を旋回するさまも表せると知る。
free-wheeling には、惰性的な、慣性のという意味もある。
自転車を漕いでいるときに、平らな道で思いっきりペダルを踏み込んでから足を放したときの、あの感じ。漕ぐ人の力でも、エンジンの動力でもない力で進んでいく。能動と受動の両方が重なった円の中心であるかのように、漕いだ力も、重力も、風も受け止めながら進む。
上の言葉がお気楽とか無責任なという意味をあわせもつように、伝統や規則が重んじられる文化のなかでは、奔放さは好まれない特性かもしれない。どちらかというと、[英]step out of line(線からはみ出た→集団の和から外れた)とか、[独]aus der Reihe tanzen(列の外で踊る→周囲を鑑みず奔放にふるまう)とか、そういう見られ方をすることもある。
けれど、わたしはこの言葉の光を受け取った。
free-wheeling を調べていると、uninhibited(感情など内から発せられるものが抑制されていない、妨げられていない)、without restraint(外からの縛りのない、我慢なく存分に)という表し方に出会う。それは、わたしが探していた言葉の欠片だった。
日々動き続けるみんなの線の内側に留まり続けるには、線を構成するメンバーの動きを絶えず観察することが必要になる。
人の目を気にして生きる。その目が内在化して、増え続けるレンズになって自分を監視する。それが物心つく前に身体化すると、ありのままであるとはどういうことなのか、自分がどんな引力をもって生まれてきたのか、まったくわからなくなる。
いつからか自分のこころが欠けて散らばってしまって、ひとつになることがない。いつも "half-hearted(心半分)" で、身体が無条件でいられる本来の姿がわからない。ぽっかりあいた心の半分に、蓄積されただれかの声が詰まって蠢いている。
そんなとき、見つめてくる目線など気にも留めずに寝転がっている生き物の姿が、わたしをもう半分のほうへと引き寄せる。わたしがいてもいなくても、風を、雨を、陽の光を受け止めて上へと伸びていく草木が、わたしもただ一つの魂だと教えてくれる。
ペダルを踏み込む力だけで進んでいくことには限界がある。
坂道なのにギアを上げて、自らペダルを重くしていることだって少なくない。
身体が疲れ切ってもう漕げなくなったときにはじめて、足元でそよぐ草花や、頬を撫でる風に気づくのかもしれない。
そしてその出会いが、わたしをまた前へと進ませるのだろう。

2023.12.21 u
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